ヒマラヤトレッキング

1976年12月〜1977年1月に約15日間の休暇をとって、同僚の関根氏とヒマラヤ
トレッキングツアー(エベレストコース)に参加。当時30歳独身(バツイチ)。

 西遊旅行という小さい特殊なツアーを専門に扱う旅行社の企画にのって
 同僚の関根氏と2週間+αの休暇を強引にとってヒマラヤに行ってきた。

 ツアーは2グループに分かれ、エベレストに向かっていくコースと、ポカラ方面への
 コースに分かれ、それぞれ15名ほどのツアーであった。 


 旅行日程

月日
ス ケ ジ ュ ー ル
宿 泊 地
12/26 東京(羽田13:20発)→PA001→デリー   
12/27 デリー(13:05発)→RA208→カトマンズ カトマンズ(ホテル)
12/28 カトマンズ市内観光 カトマンズ(ホテル)
12/29 Kathmandu →軽飛行機→Lukia(2,800m)
Lukiaにて昼食→Phakding(2,652m)
Phakding(テント)
12/30 Phakding → Josaie(2,804m 昼食)→Namche Bazar(3,440m) Namche Bazar
(シェルパ民家泊)
12/31 Namche Bazar → Phunki(3,250m 昼食) →
Thangboche(3,867m)
Thangboche(テント)
1/1 Thangboche → Pangboche(3,985m 昼食) →
Thangboche(テント泊)
Thangboche(テント)
1/2 Thangboche → Trashino(3,450m 昼食) →
Namchebazar
Namche Bazar
(シェルパ民家泊)
1/3 Namchebazar → Josaie(テント泊) Josaie(テント)
1/4 Josaie → Ghor(2,530m 昼食) → Lukia→軽飛行機 → Kathmandu カトマンズ(ホテル)
1/5 カトマンズ市内観光 カトマンズ(ホテル)
1/6 カトマンズ市内観光 カトマンズ(ホテル)
1/7 Kathmandu→Valanasi→デリー→(20:20発AI202)
【当初の予定はカトマンズ→IC414 12:30→デリー】
 
1/8 →東京(羽田)  

@カトマンズ→Lukia は4〜5人乗りのセスナを少し大きくしたような
  軽飛行機で、天候が悪いと簡単に欠航になってしまうこまった便である。

Aカトマンズのホテルでは、風呂に早く入らないと湯が出なくなって、冷水で身体を
  洗うことになってしまう。

Bシェルパ族最大の町ナムチェバザールで、高度馴化のため数日間滞在したが、その
  一族の娘に惚れられてしまい、帰国後改めて戻ってくるという空約束をしてきて
  しまった。たぶん、彼女も本気にはしていなかったかもしれないが、ちょっと
  惜しいような気がしている。

Cベナレス(Valanasi)でのトラブル
  ナムチェからカトマンズへの飛行機の後便が悪天候のために欠航となり、添乗員が
  到着しないままに、カトマンズからインドに出発しなければならなくなってしまった。
  ところが、どういうわけか目的地のニューデリーではなく、ベナレス(バラナシ)に
  着いてしまった。AIR INDIA との交渉は添乗員がいないので、メンバーの中で最も
  英会話が堪能?な私が担当することになってしまった。全員のパスポートと航空券を
  集めて、航空会社と何時間もかかって交渉し、ニューデリー行きの便を確保し、
  ヒヤヒヤの思いで何とか日本行きの便に間に合ったという、たいへん貴重な体験を
  させてもらったわけである。この交渉ができなかったら、予定便に乗れず、どうなって
  いたかと思うと、いまさらながらぞっとしてしまう。以後、その時の仲間からの私への
  信頼は絶大なものとなり、もう一人の惚れられ事件が起きてしまったが、その件は
  別途まとめることにする。事後に旅行社から菓子折り程度のお礼があっただけで、
  なんとも割り切れない複雑な心境であった。 

DMore riceの玉ちゃん
  一般に高地を経験していない人は、高度が上がるにつれて食欲がなくなり、風邪に
  似た症状などがあらわれるのであるが、私の場合は、益々食欲が増進し、何を食べても
  おいしく、いつもお代わりをしていたので、いつのまにかシェルパたちにMore riceの
  玉ちゃんというニックネームをつけられてしまった。

E酒を求めて村を駆け巡る
  添乗員らガイド(シェルパ)から3,000mを超えたら、危険なのでお酒を控えるように
  いわれていたのだが、前述の食欲と同じくお酒もすこぶるおいしく、持ってきた
  酒類を飲み尽くしてしまったのである。タンボジェという高地の村でついに酒が
  底を尽き、豊中から来ていた石中先生と2人で村中を酒を求めて駆け巡ることに
  なった。この町には酒屋はもちろんないことがすぐにわかったが、あきらめきれずに
  たぶんどぶろくのような自家製の酒があるだろうという期待のもとに、ポリタンを
  持って、民家を訪ね歩き、何とか身振り手振りで交渉し、酒を分けてもらうことに
  成功したのである。この酒は土間のたらいのようなものに入っていて、醗酵の最中
  のようであった。なんだか薄汚い乳濁液で、虫に死骸が入っていたり、ゴミが浮いて
  いたが、飲んでみると意外とさっぱりした飲み心地のおいしいもので、たいへん
  うれしい思いをしたものである。但し、ツアーの仲間たちは冷ややかな目で、二人の
  酒盛りをあきれた顔で眺めていた。

 

次号予告

韓国最高峰の山に登る

1977年8月に約1週間で韓国濟州島にある韓国最高峰の「ハンラ山」に登山。
同僚の五十嵐君と取引先社長の小林氏と3人で、個人的に企画を組んで旅行。