アルハンブラの思いで
(アルジェリアそして慶應義塾)

クラシックギターの名曲「アルハンブラの思いで」はギター愛好家ならずとも、その名を一度は聞いたことがあると思います。どうしてそれがサブタイトル「アルジェリアそして慶應義塾」につながるのか? それはさておいて・・・。
パリから飛行機で2時間。地中海を越えると北アフリカ、アルジェリアの首都アルジェに着きます。アルジェ空港から約20分南国独特の熱気と両側に並ぶ蘇鉄の街路樹の間を車で通り抜けると、目前にアルジェ港をぐるっと囲んで山の上まで、ぎっしりと白い建物が並ぶ南仏風の市街地が開けます。街行く人々はほとんど洋装であり、写真で見てきたチャドルで顔を覆った女性は老人以外はあまり目につきません。しかも人々はフランス語を話すので、交通標識に書かれたアラビア語とフランス語の併記が、やっとここがアラブ圏のアルジェリアであり、旧仏領であった名残を教えてくれます。
オールドファンには懐かしいフランス映画「望郷」の舞台であり、ジャンギャバン扮するペペルモコが活躍したカスバやラストシーンのマルセーユ行きの客船を望むホテル「アレッティ」も昔のまま残っており初めてみるものにとって、あたかも映画の一シーンをみる思いを起こさせます。
これは私が昭和52年2月にある繊維プラント国際入札の日本連合チームの一員として電気設備技術打ち合わせのために、初めてアルジェリアの土を踏んだときの印象でした。この入札は世界10カ国からの応札があり、技術的にはともかく地理的条件、アルジェリアにおける実績、実力者との人脈から判断しても、まさか受注できるとは思っておらず、ましてその後五年間もこのアルジェリアに関わり合うとは思ってもおりませんでした。

そんなある日同行の他社の人々と、アルジェリア西部にある同国第二の都会オラン、ここもアルジェリアに負けず劣らず美しいたたずまいを保っているところですが、そこのアルハンブラというレストランに入り、店内のアラビア風調度品、絵などを眺めながら、ショルバ(アルジェリア風のおいしい魚スープ)を味わっていたとき、ふと気になってギャルソン(ボーイ)「こんなおいしいアルジェリア料理があるのに、どうしてこのレストランはスペイン風の名前を付けたの?」と質問をしたところ「ムッシュそれは違うよ。アルハンブラとはアラビア語で赤い城という意味で、第一、スペインはイスラム帝国の領土だったのだよ」といわれ、「アルハンブラの思いで」の曲の背景に新しい発見をするとともに、遠くカルタゴ、ローマ帝国、サラセン帝国に遡るアルジェリアの歴史に不思議な興味を持ち始めたのでした。

「ここは地の果てアルジェリア」という歌が昔あったように、我々日本人は私を含めてアルジェリアといえばまず砂漠を連想しますが、事実その75%は有名な砂漠ですし、そこは気温も50℃を超え、そこにすむ人は少なく、大都会を離れると習慣も服装もアラビア風そのものですが、地中海沿岸の幅60kmのグリーンベルト地帯は、地中海気候の温暖さと合わせ、ローマ時代の円形闘技場などの遺跡も多く、南欧風の風景の美しさは魅力的です。

冒頭に紹介した国際入札は図らずも日本連合が落札に成功し、私は14ヶ月の現地常駐を含めて5年間、電気設備担当としてこのプロジェクトに従事しました。英語が世界中に通ずるというのは嘘で、アルジェリアでは全く通じませんでした。従って多数の通訳の人々がこのプロジェクトに参加したのですが、残念ながら通訳の方々は文学部出身の方々ばかりで、技術文書の翻訳あるいは技術用語の通訳は間違いが大変多く(文学部の方すみません。でも技術知識がなくては無理もないことです)しばしばトラブルが発生し、自分自身でフランス語を学ぶしかないと決心し、またどうせ学ぶなら何か形に残るものにしたいということで、慶應義塾大学の通信教育との出会いが始まりました。

日本のプラント輸出ブームに乗り、その後も引き続きイランの超高圧変電所建設、シンガポールの地下鉄建設などに従事し、幸いにもフランス語、英語の単位だけは早々ととれたのですが、卒業率3~5%という高度なカリキュラムがなかなか修得できず、あっという間に在籍期間12年が過ぎてしまいました。やはり私には無理だったかと一度ならずとも経済学士の取得はあきらめたのですが、93年に名古屋単身赴任と同時に再入学し、幸いにも企業や地方自治体に勤める同年代のサラリーマン、教員、医者、貿易商、素敵な奥様方など多才な慶應義塾通信教育の仲間にも恵まれそれから4年、97年に合計16年かかって卒業出来ました。

今私は時々ラジオから流れるギターの名曲「アルハンブラの思いで」を聞く度に、スペインの古城を思い出すのではなく、アルジェリアオランのレストランでのショルバの味と、慶應義塾の良き仲間に想いを馳せるのです。

平成9年3月

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