堺・今市町で千与兵衛の子として生まれる。
茶の湯を好み、武野紹鴎に入門し、茶の湯を学んだ。
天正初年に織田信長の茶堂として3千石で抱えられた。信長の死後は豊臣秀吉に仕え、山城国山崎に2畳敷の茶室を秀吉のために建造した。
天正15年10月に北野神社の境内で大茶の湯を計画し、活躍した。
しかし、しだいに秀吉との仲が悪くなり、天正19年・大徳寺山門上に置かれた利休木像が問題化し、2月28日に京都の自邸で切腹を命じられ、死した。
| 読み | せんのりきゅう |
| 別名 | 与四郎 宗易 |
| 生没年 | 1523〜1591 |
政治:★★★★☆
武力:☆☆☆☆☆
知力:★★★★☆
「太閤立志伝2」
より
