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「青鬼」と呼ばれた
籾井教業。
(「信長の野望 烈風伝」より)

「赤鬼」と称された
赤井直正。
(「信長の野望 烈風伝」より)

遠藤直経。
(「信長の野望 烈風伝」より)

真柄直隆。
「信長の野望 烈風伝」では
真柄直澄は出現しない。
(「信長の野望 烈風伝」より)

溝尾庄兵衛。
(「信長の野望 烈風伝」より)

あれ?「信長の野望 烈風伝」で足軽頭として登場してなかった?
(「信長の野望 烈風伝」より)
原虎胤
「鬼美濃」と称された
猛者・原虎胤。
鬼小島弥太郎
「鬼」と呼ばれた小島弥太郎
真柄直隆
5尺3寸の大太刀を振るう
真柄直隆。
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戦国武将列伝


戦国時代に活躍した人物を紹介。

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あ行
赤井直正
猪子兵助
遠藤直経
大月景秀
岡部又右衛門
織田有楽斎
鬼小島弥太郎
か行
勧修寺晴豊
可児才蔵
菊亭晴季
小島弥太郎
近衛前久
さ行
千利休
た行
高田又兵衛
沢彦禅師
竹中重矩
田代三喜斎
な行
古田織部
は行
宝蔵院胤栄
原虎胤
ま行
舞兵庫
真柄直澄
真柄直隆
曲直瀬道三
溝尾庄兵衛
毛利新助
籾井教業
や行
施薬院全宗
山科言継
ら行
わ行


毛利新助

もうりしんすけ

別名

良勝

生没年

?〜1582

織田信長の小姓・馬廻りを務める。
その後、黒母衣衆に選ばれる。
桶狭間の戦いで、今川義元の首を討ち取った。
1582年、本能寺の変で織田信忠と共に二条御所で奮戦したが討ち死にした。


小島弥太郎

こじまやたろう

別名

貞興

生没年

1522〜1582

上杉謙信の幼児期の近臣であり、屈強な護衛役として付き従った。身長が6尺余りあり、「鬼小島」として呼ばれた。
川中島の戦いで使者として武田信玄のもとへおもむいた。会見中に信玄がわざと放った猛犬が弥太郎の脛(すね)に噛みついたが、弥太郎は動ぜず、猛犬の口を握りしめ庭に叩きつけた。猛犬は眼や鼻、口から血を流して死んだ。弥太郎は何くわぬ顔で退出した。


溝尾庄兵衛

みぞおしょうべえ

別名

茂朝

生没年

?〜1582

明智光秀が織田家に仕える前からの家臣。
山崎の戦いで敗れ、小栗栖で光秀が土民の槍で倒れ、自害する時の介錯を務めた。光秀の首を坂本城に持ち帰り自害した。


猪子兵助

いのこへいすけ

別名

高就 高然

生没年

?〜1582

斎藤道三に仕え、その後織田信長の近習、軍使として仕えた。
「正徳寺の会見」の際、家屋の中でひそかに信長を観察する道三のそばで控えていた。
本能寺の変で二条御所で討ち死にした。


沢彦禅師

たくげんぜんし

別名

宗恩

生没年

?〜1587

京都・妙心寺で修行した禅僧。
織田信長の「信長」の名付け親で、また古代中国の周王朝の故事にならい稲葉山城の地を「岐阜」と名付けた。


岡部又右衛門

おかべまたえもん

別名

生没年

?〜?

尾張・熱田の大工棟梁。
父と共に織田信長に仕えた。
1573年、信長の命令で大舟を建造した。
安土城天守閣の築城責任者に任命された。


原虎胤

はらとらたね

別名

虎種 清岩
美濃守

生没年

1497〜1564

武田信虎・信玄に仕える。
1521年の甲斐飯田河原の戦いで北条綱成の父・福島正成を討ち取った。
信玄が剃髪したとき、「清岩」と号した。
1553年、「家法」に背いたため国外追放され、北条氏康に仕えたが、許され帰参する。
1564年、病没する。享年68。

38度の合戦に出陣し、全身に58カ所の傷があった猛将。その猛将ぶりから、「鬼美濃」と異称された。
また、合戦で傷ついた敵将を敵陣まで送りとどけたという。


真柄直隆

まがらなおたか

別名

十郎左衛門

生没年

1536〜1570

朝倉氏の家臣。真柄直澄の兄。
1570年、姉川の戦いで徳川軍と激闘し、子・隆基と共に討ち死にした。

真柄兄弟は5尺3寸(約175センチ)もの太刀を振るって、戦っていた。


真柄直澄

まがらなおずみ

別名

十郎三郎

生没年

?〜1570

朝倉義景の家臣。真柄直隆の弟。
兄・直隆と同じく、猛者であった。
1570年(元亀元年)6月、姉川の戦いで徳川軍の勾坂式部に討たれた。


遠藤直経

えんどうなおつね

別名

喜右衛門
直継

生没年

?〜1570

浅井長政の家臣。大依山砦の守将。
1568年(永禄11年)、織田信長暗殺計画を長政に提案するが、却下された。
1570年(元亀元年)6月、姉川の戦いで直経は織田軍の武将を装って本陣に入り込み、信長の首を狙ったが竹中半兵衛重治の弟・竹中重矩に討たれた。
竹中重矩は、かねてから「直経の首をとる」と狙っていた。


竹中重矩

たけなかしげのり

別名

生没年

1546〜1582
竹中重元の子。竹中半兵衛重治の弟。
美濃国の斎藤龍興に仕え、その後織田信長に仕えた。
1570年(元亀元)、姉川の戦いで浅井家の猛者・遠藤直経を討ち取った。
のちに豊臣秀吉に仕え、1582年(天正10)6月6日、美濃国不破郡長佐村の郷士一揆と戦って、戦死した。享年37。

舞兵庫

まいひょうご

別名

舞野兵庫助
前野兵庫助

生没年

?〜?

豊臣秀次の家臣。1595年(文禄4年)7月、秀次事件のために浪人になる。のちに、石田三成に召し抱えられる。
関ヶ原の戦いの前には、三成の身辺を警護する。
関ヶ原の戦いでは三成に従軍。共に奮戦した。
戦後の消息は不明。


赤井直正

あかいなおまさ

別名

才丸 悪右衛門

生没年

1529〜1578

波多野氏の家臣。時家の子。黒井城主。
萩野家の養子となっていたが、兄の戦死で家督を継いだ。武勇に優れ、「赤鬼」と呼ばれた。
1575年(天正3年)、明智光秀と戦い撃退した。
1578年(天正6年)3月9日に死去した。


籾井教業

もみいのりなり

別名

越中守

生没年

1532〜1576

波多野氏の家臣。籾井城主。
赤井直正の「赤鬼」に対して「青鬼」と呼ばれた。
1576年、中国侵攻に向かう羽柴秀吉に籾井城を攻められ落城、討ち死にした。


鬼小島弥太郎

おにこじまやたろう


小島弥太郎」をご覧下さい。


近衛前久

このえさきひさ

別名

晴嗣 前嗣

生没年

1536〜1612

近衛稙家の子。関白まで務めた公卿。
越後国へ下向(都から地方へ行くこと)して、上杉謙信(当時は長尾景虎)に上洛を促した。また、摂津や丹波、薩摩へ下ったりした。本能寺の変後、出家して「竜山」と名乗った。
その後、徳川家康に身を寄せ、京都・慈照寺東求堂に隠棲(ひっそりと暮らすこと)し、1612年(慶長17)、死去した。

歌道や馬術、放鷹に精通した。


山科言継

やましなときつぐ

別名

生没年

1507〜1579

公卿。1520年(永正17)、従五位上・内蔵頭に任ぜられ、1532年(永禄12)、権大納言に。1574年(天正2)、正二位に昇進した。
天文年間に今川家や織田家の一族・家臣らと交流を深め、朝廷への献金を要請し、皇室経済の維持に力を注いだ。
また故実・音楽に通じていた。
「言継卿記」を記した。


勧修寺晴豊

かじゅうじはれとよ

別名

生没年

1544〜1603

藤原氏。
1553年(天文22)に元服し、1572年(元亀3)、正四位上で参議・右大弁に任じられ、1582年(天正10)に従二位・権大納言に昇進、1601年(慶長6)正月に従一位・准大臣にまで昇りつめる。

1576年から1600年にかけて武家伝奏役に就任し、織田信長と本願寺勢力の和平交渉にも尽力した。

織田家や豊臣家、千利休と親交があった。
「晴豊公記」を記した。


菊亭晴季

きくていはるすえ

別名

生没年

1539〜1617

朝廷内部で空位になった「関白」に豊臣秀吉を就かせるよう申請した。
周りの公家たちから「武家クルイ」と呼ばれた。
豊臣秀次事件に連座し、失脚した。


宝蔵院胤栄

ほうぞういんいんえい

別名

生没年

1521〜1607

宝蔵院流槍術の始祖。中御門胤永の子。
刀や槍の修行をし、諸国を回った。のちに柳生但馬守宗厳と共に上泉伊勢守秀綱に刀術を学んだ。
胤栄の門人に可児才蔵高田又兵衛、中村尚政がいる。
1607年(慶長12)8月26日(正月という説もあり)に死去した。享年87。


可児才蔵

かにさいぞう

別名

吉長

生没年

?〜1613

美濃国の出身。宝蔵院胤栄に槍術を学び、「槍の才蔵」と称された。また、合戦で討ち獲った首が多すぎて持ち運ぶと戦闘の邪魔になるので、首の耳や鼻、口に笹の葉を詰め入れ「この首はこの才蔵が討ち取った」という目印にした。このことから「笹の才蔵」とも呼ばれた。
斎藤龍興に仕え、のちに柴田勝家、明智光秀、織田信孝に仕えた。
1583年(天正11)、信孝の滅亡により、豊臣秀次に仕え小牧・長久手の戦いに従軍した。その後、前田利家・福島正則に仕え、関ヶ原の戦いでは17もの首を討ち取り、奮戦した。


高田又兵衛

たかだまたべえ

別名

吉次 
崇白(宗伯)

生没年

1589〜1671

高田流槍術の祖。伊賀国に生まれる。
奈良の宝蔵院胤栄の弟子・中村直政に槍術を学ぶ。
大坂夏の陣では豊臣方に属して戦った。その後、浪人となり、江戸で町道場を開いた。のちに小笠原忠政に仕え、1637年・島原の乱にも出陣し、加増を受けた。豊前小倉で死去した。


千利休

せんのりきゅう

別名

与四郎 宗易

生没年

1523〜1591

堺・今市町で千与兵衛の子として生まれる。
茶の湯を好み、武野紹鴎に入門し、茶の湯を学んだ。
天正初年に織田信長の茶堂として3千石で抱えられた。信長の死後は豊臣秀吉に仕え、山城国山崎に2畳敷の茶室を秀吉のために建造した。
天正15年10月に北野神社の境内で大茶の湯を計画し、活躍した。
しかし、しだいに秀吉との仲が悪くなり、天正19年・大徳寺山門上に置かれた利休木像が問題化し、2月28日に京都の自邸で切腹を命じられ、切腹死した。


織田有楽斎

おだうらくさい

別名

長益 源五郎

生没年

1523〜1591

織田信秀の子。信長の弟。
信長の家臣として甲州征伐などに参加した。本能寺の変のときは甥・織田信忠と共に二条御所に籠もったが幸運にも逃亡に成功した。
その後、豊臣秀吉に仕えた。
早くに出家し、「有楽斎」と名のった。
関ヶ原の戦いでは徳川家康に従軍し、蒲生郷舎を討ち取る武功を挙げ、加増され3万石の大名となった。その後は豊臣秀頼を補佐する一方、大坂方の情報を徳川方に密告した。

「利休七哲」に数えられ、茶人として有名である。
晩年は京都で茶事に余生を送った。
徳川家康から江戸に屋敷を与えられ、その屋敷の跡が「有楽町(うらくちょう)」と名付けられた。


古田織部

ふるたおりべ

別名

重然(しげてる)

生没年

?〜1615年

重定の子。
織田信長・豊臣秀吉に仕えた。小牧・長久手の戦いや小田原包囲戦に参陣した。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも出陣する。
関ヶ原の戦いには東軍(徳川方)に従軍し、1万石を与えられる。
大坂の陣では豊臣方と内通し、自刃を命ぜられ、子・山城守とともに自害した。

千利休のもとで茶を学んだ。利休の死後、筆頭の茶人となる。
将軍・徳川秀忠をはじめ、各国の大名の茶の湯の師匠を勤めた。
織部焼き(おりべやき)の創始者である。


施薬院全宗

やくいんぜんそう

別名

徳運軒

生没年

?〜?

京都の医者。本姓は「丹波」。甲賀で全忠の子として誕生する。
比叡山の僧侶で、1571年(元亀2)、織田信長の比叡山焼き討ちの後、還俗した。
曲直瀬(まなせ)道三の元で医術を修得する。また、豊臣秀吉の侍医を務める。
その後、朝廷から『施薬院使』に任じられ、「施薬院」と改姓する。
朝鮮出兵では秀吉に従い、肥前・名護屋城に出陣した。


大月景秀

おおつきかげひで

別名

生没年

?〜1573

朝倉義景に仕えた医師。
京都から下向した大覚寺義俊のために催した宴会・曲水宴で歌を詠んだ。
朝倉家滅亡後は出家し、北ノ庄で薬屋を営み、妙薬「万金丹」を製薬した。
子孫は加賀藩に仕えた。


田代三喜斎

たしろさんきさい

別名

三喜

生没年

1465〜1537

古河公方足利氏に仕えた医師。武蔵国川越で生まれた。
足利学校で医学を学び、23歳の時に明国へ12年間留学し、李医学や朱医学を学んだ。
名医・曲直瀬(まなせ)道三は田代三喜斎から医学の手ほどきを受けた。
子孫も医師として足利氏に仕えた。


曲直瀬道三

まなせどうさん

別名

正盛(まさもり)
等皓 盍静翁
翠竹院 亨徳院
一渓

生没年

1507〜1594

医師であり、近世李医学・朱医学の祖。
京都・相国寺で経詩文を学び、後に田代三喜斎に医術を学んだ。
足利義輝や毛利元就、織田信長に仕えた。
毛利元就の政治のことを述べた『九十箇条陳上書』『啓迪集』を記した。
1595年(文禄5)1月4日に死去した。享年89。京都・十念寺に墓地がある。



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