◆◆◆祇園祭 山鉾巡行◆◆◆

 

日本三大祭りのひとつ「祇園祭」は、今からおよそ1100年前の貞観11年のこと、
都に疫病が流行するのは牛頭天王のたたりだと、天王を祀り祈願したことに始
まり,悪疫を封じ込む御霊会として発展した。
豪華な飾りをつけるようになったのは、桃山時代から江戸時代にかけての貿易
の影響で中国、ペルシャ、ヨーロッパなどの染織品などを競って用いるようにな
ってから。「動く世界の博物館」と呼ばれ、目を見張る豪華で美しい山鉾として
今日に至っている。
 
長刀鉾
毎年必ず山鉾巡行の先頭を行く。現在,生稚児が乗る唯一の鉾でもある。他の
鉾には稚児の代わりに人形が乗る。鉾先には,疫病邪悪を払う長刀をつけている。
長刀は,三条小鍛冶宗近が娘の病気の回復を祈願して八坂神社へ奉納したもので,
その後,鎌倉時代にある武人に愛用されたが,不思議が連発したため返納された。
大永二年(1522年)に疫病が流行ったとき,神託により長刀鉾町でこれを飾ったとこ
ろ疫病は治まった。創建は,嘉吉元年(1441)説が有力。鉾の真木は20mあり,前懸
と胴懸は18世紀の絨毯。
菊水鉾
鉾の特徴である唐破風屋根は、綾傘鉾が江戸末に小型の鉾になった時、三十年間
用いただけで他に例はない。この屋根形は平安時代に日本で生まれたが、異国風
なので唐破風の名が付いた。
菊水鉾は祇園祭の中でも代表的な山鉾。江戸時代の禁門の変(1864年)で焼失
町内の金剛能楽堂にある菊水井(きくすいい)という井戸にちなんで名付けられた。
謡曲「枕慈童」に取材し,魏の文帝の勅使が薬水を訪ねて山に入った時に出会った,
甘菊の葉に滴った露を飲んで七百年生き続けている少年,枕慈童(じどう)が稚児人
形。能装束の舞姿が象られている。元治元(1864)年に消失したが,1952年に88年
ぶりに再興され,以降,年々装飾品を充実させている。鉾頭に天向きの金色の透かし
彫の十六菊をつけ,唐破風造りの屋根に海老名峰彰作の鳳凰の懸魚を飾り,軒下に
翠簾(すいれん)を掲げているのが特徴。飛鶴図の前懸,唐獅子図の胴懸,孔雀図の
見送は皆川月華作。
月鉾
動く美術館とも賞される豪華な月鉾は,元治元(1864)年の大火でも失ったのは真
木だけ。様々な古い装飾品が残されている。
筆頭は古鉾頭と天王の持つ櫂で,これらには「元亀四年(1573)六月吉日大錺屋勘
右衛門(おおかざりやかんうえもん)」の刻銘がある
当代随一の名工の力を得た飾金具類は圧巻です。また、左甚五郎作と伝えられる
彫刻、円山応挙の屋根裏絵画、天井の源氏五十四帖扇面散図などその華麗さ豪華
さは山鉾の中でも屈指のものです左甚五郎作といわれる破風の兎。その下で亀が
兎を見ているのが
船鉾
船鉾『日本書紀』に記される神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅出船の説話が
由来で,「出陣の船鉾」の別名を持つ。
これらは元和2年(1616)の銘がある古い作品。鹿島明神の長刀は,井上和泉守真
海による寛文年間(1661-1672)作の逸品。
皇后がかぶる神面は,文安年間(1444-1448)の作品で,安産に奇瑞があると伝えら
れ,宮中でも尊敬されて明治天皇誕生の際には宮中へ参内した。
神功皇后がこの出船の際に応仁天皇を生んだことから,皇后の御神体は晒(さらし)
をたくさん巻いて巡行し,巡行後にこれを安産祈願の御腹帯として授与する。
船形をした鉾の舳先(へさき)には金色の鷁(げき)と呼ばれる想像上の瑞鳥を飾り,
艫(とも)には黒漆塗螺鈿(らでん)の飛龍文様の舵をつけ,船端には朱漆塗の高欄
をめぐらし,船の上の唐破風入母屋造りの屋根に2本の旗竿を立て,そこに紅白の吹
流しと長旒(ちょうりゅう)をはためかせる。応仁の乱以前より2基あり、この鉾は先祭
(さきのまつり)のトリをつとめた『出陣の船鉾』といい、元治元年(1864)に焼けて現在
焼山になっている後祭『凱旋船鉾』と区別している
鶏鉾
中国の「諫鼓(かんこ)」の史話より取材。唐の堯(ぎょう)の時代は天下がよ
く治まっていたため,訴訟用の太鼓(諫鼓)も使われることがなくなり,苔が生
え鶏が巣を作ったという故事に由来する。
鉾頭の三角形の中の円盤は,鶏卵が諫鼓の中にあることを表しているといわれてお
り,真木の中ほどにある天王座には航海の神である住吉明神を祀っている。
江戸中期を代表する画家、円山応挙やその流れをくむ四条派の下絵による水引により
、その画風が堪能できる鉾です。同時に16世紀ベルギーで製作され、重要文化財の
指定を受けた飾毛綴(かざりけつづれ)の秀作見送もあり、和洋の美の出会いが楽し
める鉾といえます。また、幕末の人形ならではの大人びた風貌に鶏を飾った天冠を戴く
稚児人形も必見です。
北観音山
文和2年(1353)(南北朝)に創建され、現在後の祭の先頭を行く曳山です。この
山を有する六角町には、古くから三井家、松坂屋などの豪商も居住していたため、
緻密な刺繍の見送や水引、飾金具などの豪華な装飾品を数多く所有しています。
破風の彫刻は天保4年(1833)(江戸後期)片岡友輔作のもので、欄縁や柱の金具
細工の精巧さと相まって山を一層華麗なものに見せています「上り観音山」ともい
われ、後の祭の山鉾巡行の先頭にたつ。山の上には楊柳観音像(ようりゅうかんの
んぞう)と韋駄天立像(いだてんりつぞう)を安置する。もと舁山(かきやま)で
あったものを後に曳山(ひきやま)に改め、その名残りとして真木には松の木が立
てられている。松の左二の枝に尾長鳥をつけるのも珍しい。

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