(90話)

灰屋紹益の墓

 ところ         上京区七本松通仁和寺街道上ル立本寺境内

西陣の西端、かっては賑わった五番町の灯りが消えた西を抜けると仁和寺街道。下町風情が家並
み残す後にして西側に広いお寺がある。境内は清閑として広い。立本寺境内の西南すみに墓の群れ
がある。かなり古い長方形の墓郡の中に一っだけ、笠石をのせた花崗岩のしゃれた墓が目にとまる。
江戸初期の豪商で_知られる灰屋紹益の墓________島原の名妓であった吉野太夫を身請け、愛と歌、
お茶、書道、そして宗教とはなやかな生涯を送った京の豪商の華麗なる”男の歴史”が静かに眠って
いる。さびれた墓地にたたずむと、男女のロマンがよみがえって来る。
 
南北朝のころから代々紺灰業を営んできた京の豪商灰屋紹由に、紹益という養子がいた。が、あとつ
ぎに見込んだ紹益は、商売よりも風雅を愛し、商売そっちのけで和歌,茶道、書道にこり「にぎはひ草」
という近世初期の隋筆文学の名著まで残すほどになった。そうして女性をこよなく愛し、ついに島原の
名妓であった吉野太夫を身請けするにおよんで、とうとう父紹由は、あいそうをつかしてしまった。
「遊女におぼれるとは灰屋家末代の恥じゃ、出て行け」と、とうとう紹益を勘当してしまった。
それからしばらくたったある日、紹由が時雨にあって、ある家の軒先で雨宿りしていると女あるじが見か
ねて家の中に招きいれた。
「よろしおしたら、ゆっくりお茶でも、どうどす」
あまりのやさしさに紹由は、あるじの善意にあまえ、家の中に入った。茶菓子を出してもてなした
その女あるじの美しい顔だちとやさしい身のこなしに紹由はすっかり上機嫌になり、つい長居をし
てしまった。
感激した紹由は、後日知人にそのときの女あるじから受けた親切を話してしまった。
「え・・・あの・あの家のあるじだったら有名な吉野太夫や。紹由さん、あなたの息子さんの御嫁さんど
っせ」________ふしぎそうに話す知人に、紹由はびっくり、紹益の勘当を許した。
 
江戸初期,京に花咲いた豪商灰屋紹益は、本名は佐野重孝、佐野家は本阿弥光悦の縁故の生まれで
ある、薬品のない時代、染めは灰を用いおり、紺染めに用いる灰を扱うため”灰屋”と号し、巨万の富を
築き京の上層町衆を代表する豪商だったが、紹由のころ、すでに灰屋は廃業していた、とも言われてい
る。元禄四年八十二歳の長寿をまっとうして世を去っている。
墓石は、”南無妙法蓮華経”のお題目、直ぐ側に子、孫の三代の墓石が並んでいるが、どういうわけか
吉野太夫の名は見わたらない。
紹益は妻の死別後、吉野太夫を身請けした。ときに紹益は二十二才、太夫二十六才年上女房である、
美人薄命のたとえ、三十六才で病死。その後三度目の妻を貰っている。紹益は日蓮宗に帰衣しており
文筆家であると共に宗教人である。
著書として、近世随筆の名著「にぎはひ草」があり、また「蹴鞠(けまり)之口傳」などを残す。
 
     「都をば 花なき里となしにけり 吉野を死出の 山にうつして」
 
吉野太夫(松田徳子)は、1606年(慶長11)、洛東方広寺付近で、西国の武士・松田武右衛門の子として
生まれましたが(父は、訳あって流浪し京都在住)、7才の時、父と死別して、島原の遊里に預けられたと
云われています、和歌・連歌・俳句に書・茶湯・音曲などに秀で・・・・・吉川英治作「宮本武蔵」武蔵と
吉野太夫の一節「断絃(だんげん)」
本阿弥光悦ゆかりのお寺で常照寺に(京都市北区鷹峰北鷹峰町45)吉野太夫が寄進した事から「吉野
門」、赤い色をしている事から「赤門」とも呼ばれています、丸い窓は吉野太夫が好んだ事から「吉野窓」
とも呼ばれています。墓石は歌舞伎役者によって明治に出来今でも 法要と吉野太夫墓前供養が行われ
ています。

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