(84話)

光明寺

ところ        長岡京市粟生西条ノ内26-1

光明寺山門 文治元年(1185年)に、かの源平の戦いで有名な熊谷蓮生(れんせい)法師(熊谷次郎直実
)が戦いの明け暮れから、積もる罪業を償い極楽往生の道を求めて法然上人を訪ねました。
「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に申せば必ず救われる」との、あまりにも有り難いみ教えに歓喜し
直ちにお弟子となり剃髪しました。
法力房蓮生と名付けられ、数年のご修行の後、喧噪の吉水を離れ、静かに念仏を称えられる地を求め
て、建久九年(1198年)に、上人ゆかりの地、粟生広谷に寺を建て、法然上人を勧請して入佛落慶法要
を営み、開山第一世と仰ぎ、自らは二世となり、上人からは「念仏三昧院」の寺号を頂きました。
これが光明寺の発祥です。
 
蓮生法師は法然上人の教えにしたがって熱心に修行をしましたが、ときには、今の私たちから見ると
「やりすぎでは?」と思うこともあったようです。
その最も有名なエピソードの一つが「東行逆馬」蓮生法師は阿弥陀様がいらっしゃる西方をうやまう
あまり、関東への布教の旅に出るときも、「西におしりを向けて進むことはできない。」とおっしゃり、
馬に逆さに乗って西をおがみながら進んで行ったそうです。
かなり無理のある旅だったでしょうが、元荒武者らしい熱心さには頭が下がります。
 
法然上人は東山の大谷の地に埋葬されていました。しかし、念仏の教えが広まるにつれ、それを快く
思わない比叡山・奈良の僧たちが、上人の墳墓をあばいて辱めようとしている、という企みがあるこ
とが発覚したのです。
嘉禄三年(1227)、危険が迫っていることを知ったお弟子の方々は、御遺骸を嵐山の二尊院に移
し、さらには、太秦の西光院へ隠しました。しかし、叡山からの圧力をかわすことは日に日に難しく
なっていきました。
そんなある日、密かに御護りしていた石棺から、一筋の不思議な光が放たれました・・・・・・・・・
弟子の方々がこの光を追って南へ向かいますと、粟生の念仏三昧院へたどり着いたのです。これが現
在の光明寺です。当時としては都から遠く離れ、法然上人との深い因縁もあるこの地は、御遺骸を荼
毘にふして、お墓をつくるのに、いかにもふさわしい場所と、お弟子の方々もすぐに気がつきました。
そして石棺をこの地に移し、御遺骸を荼毘にふしたのです。

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