(80話)

車折神社

ところ      京都市右京区嵯峨朝日町23

神前に大小さまざまな石が山と積まれている。その石ひとつひとつにマジックで、丁寧に字が書かれ
ている。小雨に濡れて、字が黒光して何かをうつたえるようだ。
車折神社(くるまざきじんじゃ)に伝わる”神石信仰”は、庶民信仰の原点が現在に息づく人間の心
の永遠性と不思議を目のあたりに見せてくれるようだ。
「石に願いを賭けるとかならずかなう」と昔から言われ、祇園、先斗町など花柳界の女将あたりから
始まったと云われている。
願いことを叶えるにはまづ、神社で”神石”を借りて帰り、自宅の神前にそなえ、毎日願いをかける。
祈願が成就すると、近くの川原で小石を拾い、その石にお礼の言葉を書き記して、借りてきた神石と
一緒に神社に奉納する。神石祈願はお茶屋の女将の口移しで客の旦那衆に伝わり「売り掛け金が
回収出来る有り難い」”商売繁盛の石”にエスカレートした。土地柄撮影所から著名芸能人に広がり
益々全国的に成り、今では大学受験、安産、交通安全、全ての願いにと小石をせっせと運んでいる。
借金によくきく神にまつりあげられた、この神石、どうやら同社の祭神清原頼業(よりなり)公から
生まれたらしい。「より」は金の寄りがよく「なり」は商売が成り立つという訳で・・・
一説に、車折神社は地獄冥府(めいふ)の官人の来臨するところなので、まさか商売の違約はなかろ
うということから始まったと言われている、谷垣大臣も財政赤字の為の祈願でもすれば!!!
 
祭神:清原頼業(きよはらよりなり) 
清原頼業公は平安時代後期の漢学者・儒学者で、天武天皇の皇子、舎人親王の御子孫にあたり、一族
の中には三十六歌仙の一人である清原元輔、その娘、清少納言らの名も見られる。
頼業公は大外記の職を24年間も任め、和漢の学識と実務の手腕は当代無比といわれ、晩年には九条
兼実から政治の諮問にあずかり、兼実から「その才、神というべく尊ぶべし」と称えられた。
頼業公は平安時代末期の1189年(文治5年)に逝去され、清原家の領地であった現在の社地に葬
られ、廟が設けられた。やがて頼業公の法名「宝寿院殿」に因み、「宝寿院」という寺が営まれた。
この寺は室町時代に至り足利尊氏により嵐山に天龍寺が創建されると、その末寺となった。
社名の由来は、後嵯峨天皇(1242〜1246)が牛車に乗って大堰川へ船遊びに行かれる際、社に気付か
ず社の前を通ろうとしたとき石に当たり動かなくなり、勢いよく引いたところ左右から出ている引棒
(轅:ながえ)が折れたことによる。天皇は、気付かなかった非礼を詫び、車折大明神の神号と正一
位がおくられた
 
芸能神社 車折神社境内。撮影所が近くにあることからか著名芸能人が奉納した玉垣が連なるり柱や壁な
ど、所狭しと映画やテレビで活躍している芸能人の写真が貼られている。
 
三船祭は車折神社が斎行している神事であり嵐山の大堰川(渡月橋より上流を大堰川下流を桂川)にお
いて王朝時代の名残り偲んで御座船・龍頭船・鷁首船など20数隻を浮か べて、御祭神である清原頼業公
が活躍された平安時代の船遊びを再現する。拝観者は約10万人に及ぶ。

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