(76話)

乃木神社

ところ    伏見区桃山町板倉周防32

桃山御陵(明治天皇の墓)が北側にあるので、北面して鎮座している、京都・乃木神社
歴史好きの人たちのなら良く知られている、乃木希典(のぎまれすけ)乃木将軍祭神とす
る全国乃木神社の中で最初に建てられた神社です。 京阪電車(村野山人)を退職し、乃
木神社の建立に残りの生涯と私財を奉じられた、その後下関市、函館市・室蘭市・栃木県
那須郡・東京都港区・滋賀県蒲生郡・香川県善通寺市に出来ました。
第二次世界大戦以前、乃木は軍神として畏敬の念をもっていた信仰の対象して持てはや
された。
 
松陰の叔父である玉木文之進とは親戚関係にある弟子入りし、玉木文之進は『松下村塾』
の創設者であり、松陰に徹底的な教育を叩き込んだ(あまりにも厳しい教育であったため
松陰の母は松陰に「もうお死んでおしまい」と言ったくらい)人です。こんな人ですから心身
ともに乃木希典も鍛えあげられたのでしょう。
武人としての評価は分かれるところであり、西南戦争のとき軍旗を失い自決しようとした
が、諫められ、日露戦争では、明治天皇に復命の際、「旅順の攻撃には半年の長日月を要
し多大の犠牲を供し・・・・・・・・・・」と述べて、自分の作戦の失敗から多くの国民の命を落と
したことの責任を痛感され、死をもって国民の前に謝罪したいといわれた。
「愧ず我れ何の顔あってか父老に看ん」という詩も、乃木希典の人間性を素直に現わして
います。
しかし、明治天皇は「今は死すべきときでない」と慰撫し、悲痛の乃木希典に、その心で
昭和天皇の教育を頼むということで、学習院院長にと発議し任命さた。
昭和天皇は後年、「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった」と
いっているほど生徒に尊敬されていたようだった。
逸話として、旅順攻略戦の講演の時他の多くの軍人はいかに勇ましく武勇戦を誇らしげに
話したが、乃木は演壇の上しばらく沈黙し・・・
「乃木はあなたちの大切な父、兄、弟を無くした事を深くお詫びします」
演壇から降りた時多くの人々に感動を与えた。
9月13日静子夫人を伴って葬儀に参列し、天皇に最後のお別れをした後、赤坂の自宅に
もどり、二階八帖の間に於いて自決されました。
武官としての作戦の責任と、多くの犠牲を深く恥じた乃木希典のこの自刃は文人としての
心情に裏打ちされた武士道・明治の終焉でありました。
その自決はすぐ世界にひろがった。文明世界のほとんどの国の新聞に掲載された。そして、
この時代錯誤的な“殉死”に対しおどろきつつ、そのことごとくが賞賛した。乃木自決の衝撃
はすさまじく、大正初期は義に殉ずるとして幾多の殉死、後追い自殺が流行した。
 
当時の代表的知識人の説によれば
 
幸田露伴は、義人烈士と賞賛されるもので殉死しないものは一人もなく、これは当たり前の
ことであるといい、敬慕の念を示しているといっている。
 
芥川龍之介は「僕は将軍が自殺した気持ちは幾分わかるような気がします。しかし、写真
をとったのはわかりません。まさか死後その写真が、どこの店頭にも飾られることを、」と、小
説の中で述べている。
 
志賀直哉は日記にこう記している。「乃木さんが自殺したといふのを英子からきいた時
「馬鹿な奴だ」といふ気がした。丁度下女かなにかが無考えに何かした時感ずる心持と同
じやうな感じ方で感じられた。」
 
新渡戸稲造は、乃木の自刃という見事な最後は、「武士道」的精神そのものであり、深く
感動し賛美する、といっている。
 
森鴎外は、小説『興津弥五右衛門の遺書』をはじめ『阿部一族』等を虚飾のない簡素な文
体で描いている。
 
戦後派
 
司馬遼太郎の「坂の上の雲」で無能の将軍として描いているがある他に「殉死」
 
辞世の句
           うつし世を 神さりましし
                  大君の みあとしたひて 我はゆくなり
                                           希典
           出でまして 還ります日の
                  なしときく 今日の御幸に 遭うぞかなしき
                                            静子

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