(75話)

西院の河原(さいのかわら)

ところ    右京区西院高山寺町18番地

四条西大路の北東角にあるこの寺の名は高山寺通称名:西院の河原 (さいのかわら)と言
う、ここの地蔵尊日野富子男児出生に一役買ったこの地蔵尊、皮肉にも応仁の乱の“原因”
をつくり、平安京を焼け野原にしてしまう。今ある寺院の多くは豊臣秀吉 ・徳川家康の時代
に再現された物が多い。
 
加茂川と桂川の合流するあたりの河原を、昔、道祖(さい:佐比)大路・左比の河原と呼び、
淳和天皇(在位823〜833年)が現在の阪急電車西院駅辺りに離宮を造営し、皇居から見
て西に当たるため「西院」と呼ばれた。
貞観十三年(871)清和天皇・閏八月、この地は庶民の葬送の地と定められているが。のち
に庶民の葬送の地は七条に移されたが、十五歳以下の小児はやはり左比の河原に葬るこ
とに定められていた。
子供の葬儀は行わず、葬地に捨てることになっていたというが、そうはいってもやはり、いと
しき我が子をこの河原に屍を埋め、河原の石を重ねて塔婆になぞらえ、死者の菩提を弔った
ことであろう・・・・・・・・これはこの世の事ならず死出の山路の裾野なる・・・・・・・・・・
 
空也上人が都を巡化された承平・天慶・天暦の頃(931-957)は、関東に平将門の乱が起こ
り、南海に藤原純友らの海賊が横行した乱世である。各地に戦いが起こり、群盗が横行し、
都大路でさえも夜半は盗賊の群れに占領されているという有様だったから、下層の農民たち
は子供の葬式どころではなかったろう。死ねば捨てられるのである。
野ざらしの白骨や屍の上を悲風蕭々と吹きわたる左比の河原は、「さいの河原の地獄」の伝
説を生むのにふさわしい荒涼たる土地であったろう。
念仏を称えて京の町をくまなく歩かれた空也上人は、おそらく毎日のようにこの河原を訪れ、
捨てられた屍を葬り、供養されたことであろう。
その姿は、暗い運命に打ちひしがれた農民にとってはその姿は、生きている地蔵菩薩その
ものであったに違いないでしょう、念仏して歩く空也上人の姿は、鎌倉時代の仏師康勝によ
って刻まれ、今も六波羅蜜寺に伝えられているがまさに地蔵菩薩!!。
 
 
地蔵和讃
(空也上人の作)
これはこの世の事ならず
死出の山路の裾野なる
西院(さい)の河原の物語
聞くにつけても哀れなり
二つ三つや四つ五つ
十にも足らぬみどり子が
西院の河原に集まりて
父上恋し母恋し
恋し恋しと泣く声は
この世の声とはこと変わり
悲しさ骨身を通すなり
かのみどり子の所作として
河原の石を取り集め
これにて廻向の塔を組む
一重組んでは父のため
二重組んでは母のため
三重組んでは故郷の
兄弟我身と廻向して
昼は一人で遊べども
陽も入相のその頃は
地獄の鬼が現れて
やれ汝等はなにをする
娑婆に残りし父母は
追善作善の勤めなく
ただ明け暮れの嘆きには
むごや悲しや不憫やと
親の嘆きは汝等が
苦患を受くる種となる
我を恨むることなかれ
黒鉄の棒を差し延べて
積みたる塔を押し崩す
その時能化の地蔵尊
ゆるぎ出でさせ給ひつつ
汝等命短くて
冥土の旅に来るなり
娑婆と冥土は程遠し
我を冥土の父母と
思うて明け暮れ頼めよと
幼きものをみ衣の
裳のうちにかき入れて
哀れみ給うぞ有難き
未だ歩まぬみどり子を
錫杖の柄に取り付かせ
忍辱慈悲のみ肌に
抱き抱えて撫でさすり
哀れみ給うぞ有難き
南無延命地蔵大菩薩
真言

HOME *** *** NEXT