(74話)
ところ 西京区川島玉頭町,冷聲院境内
かつて京の西の玄関口、丹波街道(山陰)と 西国街(山陽)交差する地点桂川島町、天下分 |
け目の山崎の合戦の為馴染みの土地から地の利を生かして向かった明智光秀・禁門の変 |
(蛤御門の変)で御所に向かう久坂玄瑞まさに歴史街道いまでも田畑を背にして今時の寺 |
に変建して保育園の隣小さな真新しい山門(冷聲院)をくぐった左手に孝子儀兵衛の碑が。 |
冷聲院一帯は米を代々(皇籍・公家)に奉納していた、故に公家や皇籍に孝行な儀兵衛の |
話しが鷹司家に伝わって、儀兵衛は御褒美を頂く・・・・・戦前の教育を受けた人なら誰もが |
知っている話し・・・・・・・・ |
一九七二年(大正一二年)小学修身教科書(第十課・孝行)に記載された。修身教科書は |
第一課から二十七課で成り立つている、他にも馴染みのある人物は第三課忠義・楠木正成 |
第八課倹約・上杉鷹山第十七課自信・吉田松陰第十八課主婦の務・松陰の母( 滝子)第十 |
六課 忍耐・コロンブス等がある。 |
冷聲院で配布しているパンフレット「孝子儀兵衛翁略伝」によれば!! |
儀兵衛翁は、京都四条堀川西入紙屋市兵衛の子として享保九年五月に生れました。生後 |
まもなく川島村二丁縄手(今の粟田町)の農家、半右衛門の養子となりました。 |
養家は、少しの田畑もなく大変貧乏でした。七才の時、養母が以前乳母奉公していたこと |
のある北野上七軒富田屋に、母とともに奉公に出ましたが、十六才の時ある事情から母と |
郷里の川島に帰って来ました。享保十八年儀兵衛十才の折養父の半右衛門が亡くなりまし |
た。それからというものは家計はだんだん苦しくなって来ました。儀兵衛は、農業の手伝、 |
油しぼり、荷持ち、駕篭かき、普請の手伝、小料理、襖の張り替え、小間使など仕事を選 |
ばず働いてわずかの賃金を得てやっと生計をたてていました。 |
毎日の食べ物にも困っていましたが、母には好きなものを差上げ、自分はこっそりゆるこ |
飯又はゆるこの雑水を食べていましたが、それさえ食べられない時がたびたびありました。 |
[ゆるこ____くず米で牛馬のエサにする} |
そんな時母がどうしたのと尋ねても、今日は知人の所でご馳走になりましたと答えて母を |
安心させました。 |
儀兵衛は、毎朝早く起きて、母の食べ物、使い水等を用意して働きに出ていきました。母 |
は年老いて手足が痛むため髪ゆい、着物の着せかえまで儀兵衛がしました。 |
儀兵衛養子であることを母はかたくかくして、人にも実の子だといっていましたが、儀兵衛 |
三十才の頃親類の者から、「お前はだんだん貧乏になって、長年苦労して本当に気の毒だ。 |
京都には実の親もいるから、そこへ行けば世話もしてくれるだろう」と言われてはじめて養 |
子であることを知りましたが、儀兵衛は「私は今まで実の母と思って、わがままをいってき |
ました。それに実の子でない私を大切に育てていただいたご恩は本当に有難いと思います」 |
といったということです。 |
1770年(明和7年)鷹司家より御褒美を頂く |
1772年(安永元年)10月(儀兵衛49才)養母(85才)没す |
1779年(安永8年)10月5日儀兵衛(56才)没す |