(65話)

御霊神社

ところ    西京区桂久方町

桂離宮北側に御霊神社(下桂御霊神社)がある、余り知られていない。 橘逸勢(?〜842
たちばなのはやなり)逸勢は空海、嵯峨天皇と共に三筆と呼ばれる書の名人でもある。空
海・最澄ともに遣唐使として唐にも留学し、唐の文人にその書の才能は秀才と呼ばれ、褒
め称えられたといわれている。一般的には弘法も筆の誤りで空海の方が有名ではあるが。
境内には子供達の書が秋風になびいている・・・・・・・・
当時皇太后(桓武天皇)は橘氏系図と藤原氏系図が主で朝鮮(百済系)平城天皇
桓武天皇の子__平城天皇(3年間)__嵯峨天皇(14年間)__淳和天皇(10年間)
事件は嵯峨天皇の葬式の翌日のことであった。春宮坊帯刀の伴健岑(とものこわみね)と
但馬権守・橘逸勢(たちばなのはやなり)の私宅が近衛兵によって包囲され、捕らえられて
しまった。
嵯峨天皇の死の直前、健岑が天皇の死の混乱に乗じて、恒貞親王を立てて東国から反乱
を起そうとした、というのである。逸勢は積極的な協力した、ということで一緒に捕らえられ
た。捕らえられたのは阿保親王(平城天皇皇子)が、伴健岑らの陰謀を太皇太后・橘嘉智子
に密告したことによる。健岑、逸勢はなかなか罪状を認めなかった。そして10日ほどの拷問
の後に健岑は隠岐国、逸勢は伊豆国に流され、恒貞親王は皇太子の地位を剥奪された。
最終的には90人もの人間が流罪になるなどの処分を受けたという。
 
これがいわゆる承和の変と呼ばれる事件である。
しかし、事件経過や事件後、藤原良房の妹・順子が生んだ道康親王が皇太子になり良房自
身が大納言から右大臣に昇進するなどから、現在では良房の陰謀であるという説が定説と
なっている。以後天皇と藤原氏絆を強くした。
橘逸勢は伊豆へ流される途中の遠江国(静岡県三ヶ日町本坂)で死亡しているが、その10年
後無罪であるとされ、後に早良親王と共に神泉苑の御霊会で御霊として祀られるに至った。
橘逸勢はかなりの人物であった用ですが現在余り資料がなくて・・・・・・
 
御霊会とは、御霊を静めるために行った祭である。その最初は863年5月20日、神泉苑という
池のほとりで、早良親王、伊予親王、藤原吉子、観察使(藤原仲成といわれている)、橘逸勢、
文室宮田麻呂ら、政治的に失脚した人物を祀ったものである。
御霊神社は上御霊神社と下御霊神社が在ります、上御霊神社に細川勝元の率いる東軍が陣
取り、一方西軍は、ここから西方2キロ程にある、今の今出川大宮あたりに、山名宗全が陣を敷
いた(西陣)応仁の乱(1467年)11年間にわたる戦場と化した。

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