(56話)

蛤御門の変(禁門の変)

ところ 中京区烏丸通丸太町上ル

京都御苑の周囲にある9門の一つ、天明の大火(1788年)の際に初めて開門されたこ
とから「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」と呼ばれている今でも御門の梁にはめり
込んだ鉄弾が残っている、起きるべくして起きた戦い1864年(元治元年)、尊王攘夷派
の勢力を取り戻そうと、長州藩は兵を率いて京都に向かい、御所の近くの蛤御門[はまぐ
りごもん]付近で戦いになり。これが禁門の変[きんもんのへん](蛤御門の変[はまぐりご
もんのへん])です。
 
幕府(会津.桑名藩)薩摩藩両者の戦闘があり,長州藩はこの戦いに敗れ、久坂玄瑞は鷹
司邸内で自刃した鷹司邸に火が放たれた。火は折からの北風にあおられて,南へ拡大。
晴天続きで乾燥状態にあった京都の町は,たちまち火の海となった。堀川と鴨川の間,
一条通と七条通の間の3分の2が焼き尽くされた。この戦いはわずか一日で終わった。
しかし戦火は三日に渡って燃え続け「甲子兵燹図」に描かれたそのさまは地獄絵図のよ
うで,命からがら逃げおおせた人々も,山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりであ
ったという。
小川通御池上ルにある六角牢獄にも火の手は迫ったが,この時幕府側は,破獄を企てた
という理由をでっち上げて尊攘派志士33人を斬首した。
この大火により実に42,000軒の家が焼失し,難民が河原などに溢れた。こうした事態は,
支配層内の対立や薩長の天下支配欲によって引き起こされたものである。一部の人間
の私利私欲が京都の街を火の海と化したという,悲しい歴史上の事実であった。
木津屋橋油小路(新撰組の最後の不動堂村屯所)に住んでいたと云う老婆が父親が子
供の時、聞かされた話は・・・・「朝戸を開けると毎日のように侍さんの死体があった」
10歳頃聞かされた。「油小路事件」新選組を離脱した伊東甲子太郎を誘き出し、暗殺
 
久坂玄瑞は、高杉晋作と共に『松下村塾の双璧』(もしくは竜虎)と称された。
西郷隆盛は“今生きておったなら私などはこんな大きな顔をして政府の高官面はしておれ
ない”と長州人に会う度言っていたという。
吉田松陰が、29歳久坂玄瑞25歳、高杉晋作28歳、彼らは、いずれも三十に満たずに亡く
なっている、時代が動くときの出来事だろうか。
 
京都大火之略図
その被害は、町数118、家屋42000、土蔵1500、寺社塔頭480、

武家屋敷600に及んだといわれます。


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