(48話)

法成寺

ところ   京都市上京区河原町荒神口西入ル

見落としてしまいそうなひっそりと荒神口にある法成寺址の石標が立っている、今は『栄
花物語』や『源氏物語』で語られる華やかさも感じることさえままならぬ。法成寺は創建
当時、京都御所の北東側一帯に位置したことから、「東北院」と呼ばれた。
 
兼好法師・正平5年(1283〜1350)の時代には既に見る影もなく荒廃していた例を引
いて世の無常を述べるが、それは京極殿・法成寺が変化し易いものの典型だったのでは
なく、逆に道長という強大な勢力を誇った人物が財を傾けて造ったゆえに、いつまでも荒
廃するはずなどないと思われていた(「いかならん世にも、かばかりあせはてんとはおぼ
してんや」)。そういう堅固な建物でさえ、時の流れの中では荒廃せざるをえなかった。
だからこそ、それよりも遥かにはかなく見えるあらゆるものが、時の間に変化してしまう
のは当たり前だと主張したのであった。
 
池の中に建っていて、その当時、鴨川から見ればちょうど宇治川から見た「平等院」のよ
うで、「法成寺」は、「平等院」のお手本となった寺院だった、今、存在すれば、五十円、
いや100円硬貨の価値があつたと思われるだけの名勝になっていただう。
 
長保元年(999)11月7日、定子は第一皇子・敦康親王を産み落としますが、その日、藤原
道長は愛娘・彰子の入内を強行、更に翌年2月25日、彰子を中宮、定子を皇后とする前
代未聞の一帝二后の事態を引き起こし。・・・・・
そして12月定子没。世は道長の天下へ。______自らは摂政となり。
この時代、道長に近い藤原氏以外の貴族・役人たちには出世のチャンスはなく、@中下
級の役人として専門技能をもつA地方の国司となって蓄財するB地方に下り武士の棟
梁となるC仏門に入る、の4つの道を選ぶしかなかった。
法成寺には比延僧兵や奈良僧兵よく招き酒宴やった、丹波豪族が来た時、招き女・酒宴
やって機嫌をとった、当時丹波地方豪族は鉱山(鉄)をもち財力・権力を恐れ 源頼光に命
じて討たせた、それが大江山の酒呑童子だ。・・・どちらが鬼か!!
 
藤原道長(966-1027)はこの寺院で往生したのだが、往生するまでにはいろいろ手順があ
る。まじないというより信仰といった方がいいだろう。法成寺は寝殿造のような構造で池も
ある。まず東の五大堂から入り、東橋を渡って中島、西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入る。
釈迦の涅槃絵と同じように、頭北面西に寝る。九体の阿弥陀の手から九本の糸を引き、
それを握りしめ、西方浄土を願いつつ往生した。九体の九は九つの世界の意。
糖尿病から失明し、1027年(万寿4年)12月4日、入道前摂政太政大臣従一位藤原道長
は没した。享年六十二歳宇治木幡の藤原氏の墓所に埋葬された。
 
『源氏物語』の主人公の光源氏に投影され、『栄花物語』では理想的な人間として描かれ
ている。後世に『御堂関白記』と命名される日記の自筆本14巻が京都の陽明文庫にあり
現存の自筆日記としては最古のものである。
 
法成寺
長久二年(1041)地震で鐘楼が転倒
天喜六年(1058)金堂・講堂・阿弥陀堂などが焼失する
度重なる鴨川の氾濫を受け、中世の兵火によって幾度も類焼し、御所が近郊の為何人も
再建しなかったのか??
 
藤原定子に仕えた清少納言
藤原彰子に仕えた紫式部・和泉式部
 
藤原道長

  この世をば我が世とぞ思ふ

望月のかけたる事も無しと思へば

 

藤原定子

煙とも雲ともならぬ身なりとも

草葉の露をそれとながめよ

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