(47話)

小畑川

ところ  西京区樫原(かたぎはら)

永遠に絶えることなく、田を潤し、民を富ます清流_____西京区樫原一帯を南北に
貫く 小畑川は、民に実りの喜びを与えるとともに、多くの不思議な伝説をも生んだ。
天正(1572)年間、織田信長が破竹の勢いで都を治めたころ。当時、樫原一帯は米六
百石を華頂宮(皇籍・公家)に奉納していた。土地は豊かだが水がない。百姓たちは何キ
ロも先の池から桶で水を運んだ。日照りのときわ水車を十数台もつなぎ合わせ、池の水を
徹夜でくみ上げもした。百姓たちは献米の時期が近づくにつれ「水さえあれば・・・・・・・・
水が欲しい」と悩みに悩んでいた。
 
ちょうど田植えの季節になったばかりの天正十年(1582)6月2日末明、本能寺の変
起こった。明智光秀が、本能寺にいた信長を襲撃、宿坊を焼き打ちにした。光秀は勝利
の喜びを胸に山陰街道を抜け、丹波路(一山越えれば亀岡)の領土へと急いでいた。
ここに樫原在”こんにゃく屋伊平”なる百姓が登場する。伊平はこの日未明、田の水を見
回ろうと表へ出た。薄暗がりの中、山陰街道を土ぼこりを上げて、騎馬武者の一隊が駆
けてくるではないか。驚いた伊平、木蔭に身を隠し、そっと、うかがっていると、武者隊の
中の一武将が立ち止まり、東方をじっと見つめている。
伊平も思わず東方をみると、京都方面が真っ赤に燃え上がっている。武将が伊平を見て、
呼びとめた。
「おい、百姓、いま、京の方角が盛んに燃えている。あれはどこが燃えているかわかるか。
見事、あてたら望みの品を取らせよう」
伊平は驚いた。もし間違えば打ち首。考えた末、伊平はやっと決心した。
「あれは油小路、本能寺でございます」
「う__ん、見事じゃ、武士に二言はない。ようもいいあてた。わしはきょう、信長を討ち破
った。わが天下がきた。ほうびに何でもとらすぞ」と武将は上機嫌。
伊平は大声でいった。
「水がほしい。百姓一同は献米のため食うや食わず、用水路さえあれば・・・・」
伊平の願いがかなえられ、やがて用水路が完成した。それが嵐山一ノ堰__松尾_樫原
__向日市__長岡京市と続く小畑川という。
 
この辺り一帯の百姓が水に困っているのは史実、明智光秀は樫原を京と領土の行き帰り
に通る道でもあり公家とのつき合いもあり、光秀につき、用水路を造らせた、変が起こった
とき、いまの山陰街道を先導したのが樫原の者、光秀が秀吉に敗れたとき、後難を恐れて
この伝説を思いついたのでは・・・・時の政権に逆らわない京都人らし伝説
 
当地には、大江の里を北西から南東へ流れる小畑川(古名 宇波多川)に沿って、古来
(旧石器時代)より人が住みついたと思われ、古墳遺跡遺物が多数出土している。
長岡京もわずか10年でその幕が閉じられました。『続日本紀』によると小畑川・小泉川・
桂川などの氾濫による洪水被害が原因だとする説、また進展する地球の温暖化によって
風水害や干ばつなど異常気象が増え、マラリアなど亜熱帯性の伝染病が流行、飢きんが
頻発する
日本紀略などの記述によると、今の腸チフス、天然痘などに該当するとみられる疫病が長
岡京時代にはやり、延暦(783年)には大洪水が起きた。発掘調査でも、向日市内の長岡京
域にある貴族の邸宅跡地の石組みの便所や畑の畝(うね)から、回虫や蟯(ぎょう)虫など
の卵が多数見つかった。
温暖化こそが桓武天皇が恐れた『怨念』の正体だという。

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