(45話)

頼綱抱き止阿弥陀

 ところ   上京区寺町通今出川上ル光明寺

寺町は夕闇に包まれた。梵鐘が京の平安を祈るがごとくしじまを破る。寺僧が静かに竹ホ
ウキを走らせ、そよ風に誘われ一葉、舞い落ちた。その昔、北は鞍馬口、南は今出川にま
たがる広大な堂塔を誇った雲祥山光明寺も、今は本堂と境内を残すだけとなった。
頼綱抱き止阿弥陀は、この本堂の正面にある。
 
承元、仁治年間というから、今から七百年程の昔、実信房蓮生(れんしょう)という僧が京
都西山に庵を結んでいた。星が天に満ち、微風に花の香が豊かなある夜、蓮生は奇妙な
夢を見た。
蓮生は深山幽谷をさまよっていた。疲れてふと、廃空を見上げると、高さ一メートルばかり
の立像が見えるではないか。
不思議に思った蓮生「いったいどこからおいでになられた」とたずねた。
「善光寺なり}___像は世にも妙な声で答えた。さらに蓮生が近くに寄ると、白玉に飾ら
れ、光り輝く見事な阿弥陀様だ。
この時、蓮生はっと夢から覚め、床をけって廃空を見上げた。なるほど、そこには阿弥陀
様がおられる。蓮生は念仏を唱え、右手を仏にさしのべ、御手をとり、自分の袈裟をかけ
て、庵の奥深く安置したという。
この御佛を抱き止めた蓮生という僧、元は宇都宮頼綱という武者だった。頼綱が出家に至
るまでには、こんな経緯がある。
源頼朝の治勢のころ、頼綱は家来数百人を引き連れ、武蔵野を駆けていた。その時、行き
かった熊谷直実入道がいった。
「多勢の武者輩で・・・・・。無情の殺生はやめよ。念仏こそ百、千の武者にまさるものを・・・
・・」と。
またある時、頼綱は法然上人の庵を訪れた。そのときも「衆生すべて阿弥陀仏を敬えば往
生せれん」と教えられた。それ以来、頼綱は一向専修の行者となり、法然上人没後に出家
したいう。
 
蓮生はその後、阿弥陀様を高野山光明院に移したが、二百年余後に、光明院が火災にあ
った。僧たちは尊像を求めて土灰を払ったところ、阿弥陀様は大地深くに鎮座、一山の僧
たちを驚かせた。また天明八年(1788)にも、現代の光明寺が兵火に見舞われたが、その
時もこの阿弥陀様には一筋の傷もなかったとか。
数度の火事に遭ったことから”無病息災”と敬われるようになって、御所が栄えたころは女
官たちが毎日、参拝し線香の絶える間がなかったほどだった・・・・
 
宇都宮頼綱蓮生
藤原道兼の末裔、下野国(栃木県)の豪族宇都宮氏の出身第5代当主 治承二〜正元元
(1178-1259) 俗名:宇都宮頼綱 通称:弥三郎
北条時政の娘を妻に迎え北条氏との結びつきを固めたが、1205年に謀反の嫌疑を受け出
家し、「蓮生」と号したのち、上京し、法然上人に帰依する。和歌を藤原定家に学び、娘を
定家の息子為家に嫁がせるなど、京都歌壇とのつながりを強め、彼は定家に乞うて小倉
山荘の障子に天智天皇より家隆・雅経に及ぶ古来の歌人の歌各1首を選定しに古今百人
の名歌を書いて貰った。これが『小倉百人一首』の起こりとなっている。
正元元年(1259)十一月十二日、没。八十二歳。墓は洛西善峰寺にある。
 
   いかにせん身にななそぢのすぎにしを
          昨日もおもへば今日もくれぬる(続古今1811)
 
熊谷直実入道蓮生
歌舞伎でお馴染みの一の谷で敗れ去った平家の軍船を逃げ遅れた武者が追う。源氏方
でも剛の者で名高い熊谷直実が、その者を見つけ叫ぶと、その武者もさる者、波を蹴立て
て戻ってくる。ふたりはにらみ合い、取っ組み合いとなる。やはり腕力に勝る熊谷は兜をと
ってみれば、薄化粧をした美少年(敦盛)だった。思わず熊谷は、自分の息子のことを思い、
躊躇する。しかしこの若武者は、「何様だが知らぬが、首を取りなされ」と一言首を差し出す
。あわよくば己の功にせんとして、駈けよってくる一群に。熊谷は泣く泣く、この若武者の首
を取る。・・・・・・
後に法然上人に帰依すし上人からは「念仏三昧院」の寺号を頂き現在の西山浄土宗総本
山光明寺と称される紅葉は圧巻です。全山が真っ赤に色づき、訪れた方を圧倒します。そ
れでいて優しくこころが華やかになるのが自然の魅力的、隠れた京の名勝です。
 
源頼朝の家臣で熊谷次郎直実 ・宇都宮頼綱・那須与市(源平屋島の合戦)等仏門に入る
骨肉の争いが絶えなかった、源〜北条の時代

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