(44話)

寺田屋

ところ    京都市伏見区南浜町263 

たしか中学頃、ここが寺田屋と云われたが柱に刀きずが今でも残っていると友達が云った
が当時はまったく興味がなかった、良くみる京の小さな旧家であった。
 
坂本龍馬の定宿として知られ文久2年(1862)の寺田屋騒動で有名です、大阪と京都の淀川舟
便(三十石舟/高瀬舟)の乗り換え船宿でした、今は十石船が宇治川派流を運行しています。
(期間11月15日まで) 月桂冠大蔵記念館裏から伏見港公園を往復します、途中、角倉了以
の碑や酒蔵を船から眺めることができます。TV ・ドラマ等では新鮮組が登場するが本当は!
 
薩摩藩主の父・島津久光は幕府に攘夷を迫るため、家臣を率い京に上がった。藩の尊皇攘
夷派の中でも急進派の有馬新七らは、それに乗じて決起。久光は家臣の跳ね上がりを嫌い
同じく攘夷派だった奈良喜八郎らに同士打ちをさせた事件。
志士たちの動きは京都の薩摩藩邸につつぬけで。4月23日、襲撃計画を知った島津久光は、
鎮撫のため奈良原喜八郎ら8名を寺田屋に遣わしました。奈良原らは最初、説得を試みます
が、有馬らが受け入れなかったので、上意討ちとなり、有馬ら7名が斬死しました。その他は
薩摩藩邸に拘留され、関白・所司代の襲撃は未然に防がれました。<志士詩歌>
寺田屋の女中、お竜(りょう)は入浴中でしたが、人の気配に気づいて、湯文字(ゆもじ、入浴の
とき腰に巻く布)一枚のままの姿で、竜馬に知らせに行きました。知らせをうけた竜馬は、ピス
トルを出して応戦。このときに竜馬は左の親指と人差し指を負傷しましたが、お竜の機転によ
って、命だけはたすかりました。そして、キズをいやすために、お竜をともなって鹿児島に温泉
旅行に出かけました。これが日本人として最初の新婚旅行といわれています。
 
 
近江屋
坂本龍馬の最期の近江屋の2階は180メートルもない天井でなぜ刀を使わづピストルで応戦
しなかったのか???。
暗殺説には諸説があり、新選組局長近藤勇が原田佐之助に命令したとする説よりも、見廻組
実行説が有力に思えますが。
明治3年になって函館戦争で降下した今井信郎が見廻組による龍馬暗殺を自供。自分は見張
り役だったと告白。また当日の2時頃、桂早之助らと近江屋へ龍馬を訪問したが不在だった為
(居たら襲撃するつもりだった)、東山の辺をうろつき時間をつぶしていたとも告白。
函館降下の今井信郎が伝馬町に入牢中、なぜか西郷は彼個人のために大層な助命運動をし
それをかなえている。また、征韓論で敗れた西郷が鹿児島へ帰る途中、静岡にいる今井を訪
ねている。(但し、その時は留守で面会していない。)
何か裏のつながりがあったのではないかとする説と。現在でも、最も信憑性が高いとされてい
る。なお京都の霊山歴史館には見廻組桂早之助が龍馬を斬ったとされる刀が存在する。
「薩長連合、大政奉還、あれはぜんぶ龍馬一人がやったことさ」と勝海舟に言わせた。
 
 
お竜の生涯
龍馬は慶応元(1865)年9月9日、乙女とおやべ宛てに長文の手紙を書いている。禁門の変が
起き、京都は焼かれ弟妹は四散、売られようとした妹を救出するお竜の雄婦ぶりを描き、
「右女ハまことにおもしろき女」「私のあよふき時よくすくい候事どもあり」「名はお竜と申、私し
ニにており候」と知らせ、「乙大姉の名諸国ニあらハれおり候」と乙女を持ちあげて帯や着物を
つかわして下さい、とねだっている。慶応2(1868)年1月、薩長同盟成立後に起きた伏見寺田
屋事件では、入浴中のお竜は風呂から飛び出して注進し、薩摩屋敷にも急を知らせるなど、
龍馬の危機を救う働きしている。同年3月、小松・西郷らの勧めにより、薩摩へ新婚旅行に出
発し、霧島温泉や高千穂の峰に遊び、負傷の治療をかねて日本人初の新婚旅行を味わう。
美人で花を生け香をきき茶の湯を致す教養を持ち、気丈な男勝りの京女は、海援隊士らに
「姉さん」と呼ばれたが、土佐藩大監察佐々木高行は日記に「有名ナル美人ノ事ナレ共、賢婦
人ヤ否ヤハ知ラズ、善悪共ニ為シ兼ネル様ニ思ヒタリ」と表している。
龍馬の没後しばらくは、三吉慎蔵の世話になり、明治元年、龍馬の高知の実家に迎えられた。
だた、一年ほどで京都に戻り、龍馬の墓のかたわらに庵室を結んだ。お竜が土佐を去るとき、
たくさんあった龍馬からの手紙は、この手紙は人に見せたくないからと、すっかり焼いてしまっ
たようだ。
やがて西郷らを頼って東京に出、明治8年に旧知の大道商人西村松兵衛と再婚し、西村つる
と名乗り、晩年は横須賀三浦郡豊島村の観念寺裏長屋で夫とくらし、貧窮の中で、明治39
(1906)年に没している。享年66歳。墓は(龍馬の有志人々により)神奈川県横須賀市大津3
丁目信楽寺(しんぎょうじ)門前に「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とある。

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