(42話)

花車(御所車)

ところ  上京区五辻通七本松千本釈迦堂内

北山殿が衣笠に上棟された明徳四年(1397)からしばらくたった夏のとある昼下がり、
室町幕府第三代将軍足利義満は、けんらんたる花車(御所車)に乗っていつもの様に北山
殿の別邸へ向かっていた。
北山殿といえば、義満が、巨大な費用と人力をついやして造営した隠居所。金閣寺もこの
山荘一部で、義満は、ここに当時の名僧や芸能人を集めてはしばしば盛んな集会を催した
世に北山文化と呼ばれるに至ったも、この山荘を中心にして、当代の文化が一時に開花し
たからである。この日も、お付きのものを多数したがえ、山荘へ向かっていたわけだが、
たまたま現在の千本通寺之内にさしかかったところで、花車が破損した。
「殿、お車の調子が悪うなりました」
「ナニ、車が、すぐ直らぬか」
「それが、車輪が傷んだようで、車がまわりません。申し訳ございません」
やがて代わりの車が到着し、故障した車を持ち帰ろうとすると、
「車輪のこわれた車などほうっておけ。そっくりこの町にあたえるがよい」
かくして、将軍お召しの”ほまれ高き車”はそのまま町へ残された。時の権勢を一身に
集めた将軍じきじきのおことば、町民の喜びもひとしおだった。現在、千本通をはさんだ
寺之内下ルの一角が「花車町」の町名になっているのは、この時の光誉のなごりという。
この時の花車は、いまも、花車町近くの五辻通七本松、千本釈迦堂に車輪だけが保存さ
れている。以前は本堂の片すみに置いてあったが、今は、他の寺宝とともに、収蔵庫のな
かに。車輪は直径2メートルもあろう。大きくて頑丈で、華やかな、車輪からだけでも、将軍
の時の権勢が十分うかがえる。
御所車(花車)は葵祭や祗園祭、時代祭りでお馴染みである。
 
千本釈迦堂は真言宗知山派の寺で、正しくは大報怨寺。十二月七日の大根だきが催され
善男善女でにぎわう。節分にはおかめ豆まき、でも知られる。
貞応2年(1223)義空上人が釈迦念仏の道場として釈迦如来像、十大弟子像を安置したの
がその始まりと伝わります。本堂は創建時そのままのものであり京洛最古の建造物として
国宝に指定されています。
この寺の逸話として”おかめ塚”
千本釈迦堂を建てる時のこと、大工の棟梁が誤って柱を短く切って、困り果てているとき、
妻のおかめが「短い一本に合せ全部の柱を切れば」と助言をしました。その後、夫の失敗
を人に知られてはと思い、本堂の完成を待たずに自殺してしまいました。人々は女心のい
じらしさを憐れみ、おかめの供養塔を本堂の前に立てました。今でも家の棟上げにはおか
めの面をかざる習慣があり、おかめ塚は全国の大工さんの信仰を集めています。2月のお
かめ節分は有名です。
 
「御所車(花車)」
公家が乗っていた牛車の車輪に付いていた漆・金塗り、金具の付いた豪華なスポークのあ
る車を言います。本来の御所車とは、車両のことを言い〔公家乗用の牛車。俗称を源氏車〕
 
「家紋で花車」
家紋で車として定着したのは鎌倉時代とされる平安時代の牛車すなわち御所車のことをい
う。伊勢外宮に奉仕していた藤原秀郷流佐藤氏族の榊原氏の牛車は天下一品で、目のさ
めるような美しさであったという。この豪華な車で榊原氏は、外宮に奉献品を運搬した。
それにあやかって榊原氏は家紋に「源氏車」を用いた。
 
「葵祭」
欽明天皇(540〜571年)のとき、激しい風水害と凶作に見舞われたために、豊穣祈願の祭り
(「鴨の神」の祭礼)として行われたのが始まりとされています。都が京へ移ると、この祭は、
朝廷が行う雅びやかな祭へと衣替えをしました。祭は平安の古式にのっとって、宮中の儀、
路頭の儀、社頭の儀の3つに分けて行われます。
 
「祗園祭」
その始まりは平安時代初期・貞観11年(869)、京都の町に疫病が流行り多数の死人が出た
ため疫病退散を祈願し、日本の国の数である66本の鉾をつくり、神泉苑におくり悪疫を封じ
込める御霊会を行ったのが始まりと言われています。
その内の一つに通称“かまきり山”自分よりも大きな敵に立ち向かうことで、その勇猛さを賞
した中国の君子の故事に由来する。御所車に蟷螂を乗せて巡行したのが始まりといわれる
山鉾の中で唯一からくりがほどこされている。

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