(34話)

鹿ヶ谷かぼちゃ

 ところ  左京区鹿ヶ谷

今から八百年前。この地・鹿ヶ谷事件治承元年(1177)(平家打倒の談合をしてい
たことが発覚し西光は惨殺され、俊寛、平康頼、藤原成の3人は鬼界ヶ島に流罪)
承元の法難・建永2年(1207)安楽と住蓮死罪となった。法然土佐・親鸞越後に配流
 
その後応仁の乱のあと、焼け野原になった京の都の再開発が洛中のあちこちで始まっ
ていた桜谷の川ぞいいに開けた鹿ヶ谷村。
京都・粟田の住人だった玉屋藤四郎が陸奥国(現在の青森県)に旅した際に持ち帰った
かぼちゃの種を、鹿ヶ谷の農民・庄兵衛に与えた、植えたところ、夏近くになって珍し
いかぼちゃが見事に実った。
「あっ、ひょうたん型の”かぼちゃ”や。ふしぎなこともあるもんじゃ」
かぼちゃ、まるいものとばかり思っていた村人たちはびっくりした。
「庄兵衛どん、ふしぎなタネをどこで?」
「いや、陸奥国で仕入れた人に頂いた。普通のかぼちゃのタネと言っていた!!」
気候のせいか、土壌のためか、それとも??、まるいかぼちゃのタネが、突然変異を起
こしたのだ。
 
このひょうたん型かぼちゃはカタチだけでなく味は淡白であるが数倍の栄養価があるこ
とが判り以後”鹿ヶ谷かぼちゃ”として全国に知れ渡り、九条ねぎ 壬生菜 賀茂なす聖護
院カブラとならんで”京名産”のひとつになっていた。そして、村人たちは、このふしぎな
かぼちゃをあがめ、毎年夏の収穫期になると、”一番なり”を御所と近くの安楽寺に
供え、七月二十五日、寺内で、”かぼちゃ供養”をした。
「ひょうたんは縁起がいい、味も格別、そして、この日に供養したかぼちゃを食べると
”中風”にかからんのや」と村人たちは、一番なりかぼちゃを持ち寄り、夏の暑い日汗を流
しながら供養したかぼちゃをたらふく食べて豊作の喜びを分かち合った。
鹿ヶ谷かぼちゃを食べると”中風”にかからない、といういい伝えはたちまち全国に広が
り、江戸中期から明治にかけ、かぼちゃ供養はにぎわった、といわれる。
 
緑深い東山山麓に鹿ヶ谷村一帯は、いま静かなたたずまいを残す古都のシンボル。
開発の波は、進み、戦後二十年代にはまだ、畑もあってわずかにかぼちゃもとれていたが、
30年代にはいって、とうとう”かぼちゃ”は、ひとつもまくなつた。
”鹿ヶ谷かぼちゃ”は、いま、産地を京都府中部の綾部市に移し、年間約二千個しか作られ
ない、『生きた化石』のような野菜。土地の人が精魂込めて作ってきたからこそ、このユニー
クな形が守られてきた。
安楽寺の”かぼちゃ供養”は今も毎年七月二十五日に行われているが、地元にはお百姓も
いなくなり、綾部でとれた”鹿ヶ谷かぼちゃ”を供え、ささやかに供養が続けられている。
秋の日差しを浴びて、そぞろ歩きのカップルはむろん、子供づれの主婦も、もう”かぼちゃ”
をしらないだろう。
 
京野菜でもうひとうの話し
その最たるものの一つとして堀川ごぼう松の根っこのような、このゴボウを見てこれが野菜
と気付く人は少ないようです。豊臣政権が崩壊して、秀吉の贅を尽くした聚楽第が取り壊され
、周りの堀が住民たちの粗雑ゴミで埋められていくうち、ゴミの一つとして捨てられたゴボウ
が巨大なゴボウに生長し、今日に受け継がれてきたという堀川ごぼう。

HOME *** *** NEXT