(33話)

うらみの鐘

ところ  東山区大和大路正面  

方広寺は、秀吉が奈良東大寺の大仏殿を模して建てたものです。大仏は奈良の大仏より
大きいものであったといわれていますが、地震で破壊され、その後再建されたものも災厄
によって失われ、いまでは大仏も大仏殿もなく現在の建物は明治13年に再建されたもので
す。参道の唐門は、伏見城の城門の一つを移築したもので国宝 です。残っているのは豊
臣家を滅亡させる口実となった問題の巨鐘が残っているのみです。
この大鐘、家康が秀頼と淀君に勧めて再興させた大仏とともに鋳造したものですが、そこ
に刻まれた「国家安康君臣豊楽」の銘が「家康の名を2分して国安らかに豊臣を君として
子孫繁栄を楽しむ」意味だと家康を怒らせ大阪冬の陣が起きるきっかけとなったものです。
 
鐘にうらみは数々あれど___は道成寺だが、この方広寺の、でっかい鐘ほどまた、大き
なうらみをはらんだ鐘もめずらしかろう。なにしろ、この鐘が発端になって豊臣家は滅亡か
わって家康が天下を取ることになったのだから、豊臣家ゆかりのものにとっては、うらんで
もあまりあるにちがいあるまい。
淀君は家康をのろって、この鐘にとりつき、四百年ごのいまも、その執念は鐘のなかにこも
っているとか。
「白いシミが鐘のなかにあって。昔からその形が人の姿に似ている、淀君の亡霊。。。」
大きな鐘をくぐって、内部を見つめると、、、なるほど白いシミが点々と散っている。
 
慶長十九年八月、秀頼は感無量の面持ちで見上げていた。
あれはそう_____十六年前。木造大仏を再建しながら、開眼法要の日をまたず他界
した父・秀吉。
その後、大仏は大仏殿もろとも鋳工の失火から全焼し、そのままになっていた。
家康も勧めもあり(軍資金の減少)秀頼は父の意志をついで再建を計画、金銀八十二万両
を惜しげもなくつぎ込んで、いま、やっと目の前に完成したのである。開眼法要は八月三日
だった。
いよいよその日が迫ったある日。
「あいや、しばらく。その法要・待った!!
家康からストッブがかかった。
四ヶ月前、すでに完成して、とりつけを待つばかりになっていた巨鐘に、いちゃもんがつい
たのである。
巨鐘は高さ4・6メートル、口径3メートル、厚さ3センチ、重量82トン。わが国最大
といわれた東大寺の鐘をもしのぐ巨大なもの。ただ表面に刻んだ1万1千字の鐘銘の中に
{国家安康}{君臣豊楽}とあるのが、家康これはサイワイとばかりに!!!
家康の名を二分し、徳川を呪うものだといいだした。
もっとも、この銘は東福寺の僧・清韓の書。秀頼になんの作為もなかったのだが。開眼法
要にも、この鐘はとうとうつかれることがなかった、秀吉夫人・北政所(ねね)も家康の策略
で法要出来なかった。。。
川柳にある。
「つかねどこの鐘関東へは響き」
やがて、この”待った”事件は、大阪冬の陣にエスカレート、豊臣家滅亡の端を開いたの
だった。
大晦日除夜の鐘で知られる知恩院の鐘(寛永13)は徳川家の寄贈色々な歴史を作ってきた
鐘を聞いて年を越すのも京都ですね。
 
豊臣家に恩恵のあった大名ですら、なんのうらみか、家康に付いた大名
小早川秀秋(豊臣秀吉の甥)浅野長政・幸長(北政所の妹婿)京極高次(淀の方の妹婿)
秀吉の子飼い衆の中(七本槍の武将達)福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・片桐
且元・平野長泰
前田利長・池田輝政・藤堂高虎・黒田長政・金森宗和

HOME *** *** NEXT