(32話)

大徳寺 

   ところ  北区紫野大徳寺町 

大徳寺は鎌倉末期から江戸時代にわたる多くの文化財を諸大名が競って塔頭を建立し 又
歴史上の人物が良く登場する寺で栄光衰退の華々しい寺でもある、その中の一つの話し。
 
堺の商人であった千利休は、信長、秀吉に茶人としいて仕えるともに、素朴な草庵の茶で
あるわび茶を大成したことは知られている、秀吉は信長にまして茶の湯に熱を上げ、利休
は茶頭として活躍した。
天正十九年(1591)二月十三日に秀吉によって突然ちつきょを命じられ、二十八日には
切腹を余儀なくされた。
なぜ、茶の湯の師が、突然切腹させられたのか? 以来、その理由についてはさまざまな
憶測がなされてきた。
1。大徳寺唐様山門の上に、自分の木像を置いたために。
2。利休の茶道具を不当な高値で売買し、利益を得た。
3。秀吉が利休の娘のお吟を側室に、利休が断った。
4。利休の「侘び茶」と派手好みの秀吉の間の茶の湯違い。
1。2。が表向きの理由と考えられるが、3。は何年も前のことであり、4。は当然ありうるが、
それが切腹を命じるほどの切迫した理由とは考えにくい。
では、ほかにどのような理由が考えられるか?
 
今昔いわず行われている事、当時は茶の湯は風流を楽しむと同時に、各大名や堺の(津田
宗及・今井宗久)豪商たちが政談、商談を交わす場であった。
その第一人者で秀吉の茶頭であった利休は、側近のトップとして政、財界を巻きこんだ権
力闘争と深くかかわっていた。
天正十九年一月、秀吉の弟秀長が墓する。秀長は利休の後盾となっており、利休=秀長
体制は石田三成と対立していた。同年の九月には朝鮮出兵が始まる。
利休=秀長は出兵に反対であったから、後盾を失った利休は三成に座を追われた利休=
秀長路線、から三成路線に移行しょうとする秀吉によるものと思われる。
もし朝鮮出兵をしなければ、豊臣家内部闘争もなく安泰した様にも思える。
 
               千利休    辞世の句
            
           人世七十 力園希咄 吾這宝剣祖仏共に殺す
 
                  堤ぐる我が得具足の一つ太刀 今この時ぞ天に抛
 
千家はその後紫野大徳寺にいた利休の孫千宗旦が還俗して家を再興し、その次男の宗守
が武者小路千家、三男の宗左が表千家、四男の宗室が裏千家のそれぞれ祖となります。
これが三千家です。裏千家の名前の起こりは宗室が父が家の裏庭に建てた隠居所を継いで
始めたためで、表千家はそれに対する呼称です。
また、武者小路千家は京都の武者小路に宗守が茶室を建てて始めた為その名が付いた。

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