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(31話)

明智藪

ところ  伏見区小栗栖小坂町

その昔、栗栖郷と称され、一面の草地に馬が群れをなしていたという小栗栖。
東国と西国を結ぶ交通の要所として開けた。古くは壬申の乱,源平の合戦と兵馬の往来
はげしく行き会った道。。小町を慕って深草少将が百日通りし。大石蔵之助が伏見の花柳
界に通った。。坂本竜馬おそらく往来したでしょう。竹薮の小山が続く土の香りがする道
信長を討ち、三日天下を築いた明智光秀が、農民の竹槍にはてたというこのあたり、ワラ
屋根の農家をぬけ、こんもりした丘の中腹に、数奇な伝説を伝えるその竹薮があった。
夏のなごりを残した秋風に、身をうちふるわせるかのように____
 
天正10年(1582)、光秀は本能寺で信長を討った。だが、中国遠征から引き返した秀吉
と天王山で戦い、わずか数日の後に敗軍の将となった。数人の近臣に守られ、坂本へ落
ちる光秀。天下への未練、煩悩が心を狂わせた。淀川右岸を通り、伏見大亀谷を径て、
最期の地・小栗栖に至った。
「帰ったところで、二千に満たぬ軍勢、どうなるものか、一万六千余りの従臣を死なせ、
この身にかすり傷もなく。生き恥をさらすつもりか。。。光秀は将軍なるぞ。!!いっそう
この場で。。。。。」
馬上光秀は思い悩んだ。折から、しょうしょうと降る雨風に、深い藪が鳴りさざめき。
「光秀、死ぬのだ。死ぬ、光秀」_____さやさやと、身をふるわせる風なりが、光秀に
死をせまる。
「光秀。。。覚悟」
その暇間、百姓長兵部衛の竹槍が、光秀を倒した。
やがて、光秀のムクロは京都へ運ばれ、首,胴は粟田口にさらされた。
 
「あの藪を通ると、軍勢のおたけびが聞こえる」 _____こんな噂が農民から農民に
伝わった。
なるほど、竹を切る農民がケガをしたり、ふるえが止まらなかったりする。”光秀のたた
りとして、やがて人も避けて通りはじめた。
明治維新まで、この竹薮から緑にまじって赤い枝をつけた竹が無数にはえた
また、この竹薮の一面に、ちょっとした空地がある。近在の人たちは、”ワタ出”という。
光秀最期にとき、こん身の力を振りしぼった光秀が、竹槍を抜いた。その弾みに光秀の腹
部から鮮血と内臓が飛び散った。恨みをたたきつけた光秀の怨念が、周辺の竹を腐らせた
とか。
光秀の死については諸説がある。身代わり説。改名説。逃亡説。など。
光秀が落命したと伝えられる地点は長らく「明智藪」と言われる竹藪であったが、竹藪を所
有している本経寺によって1994(平成6)年1月に伐採され、土砂崩れ防止の工事が行われ
た。
 
「明智軍記」(軍記で、元禄時代の成立 )
溝尾勝兵衛は、光秀を介錯した後、その首を鞍覆いに包んで藪の中の溝に隠し、居城の坂
本城に向かったと言う。
享禄元年(1528)の生まれで、天正10年(1582)死亡の55歳とされている。
 
「川角太閤記」(豊臣秀吉の事歴を伝えた書で、川角三郎右衛門の著述といわれる)
羽柴秀吉が三十三間堂で休息をとっているところへ明智方の首を 600から700持参してきた。
その中に光秀の首があったので、秀吉は「首と胴体をつなぎ、金具でとめて粟田口の河原に
磔にせよ」と命令したとしている。
 
「豊鑑」 竹中重門(秀吉の軍師、半兵衛重治の子)
里の中道の細きを出て行くに、垣ごしにつきつける槍、明智光秀の脇にあたりぬ。されど、さ
らぬ体にてかけ通りて、三町ばかり行き、里のはずれにて、馬よりころび落ちけり

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