(30話)

本能寺

ところ   中京区寺町通御池下ル

「敵は本能寺」。今でも、京都のお年寄りは日常のできごとのたとえ話に使われる言葉
裏切りといえば、武士にとつては最大の恥とされているが、それは戦国以後の武士道が確立
されてからの話。。いまの政治家と同じである
「是非に及ばず」
信長もいづれは天下は一代で終わることを予知していたのでしようか。
 
この「本能寺の変」は様々な憶説が生まれています。なぜ、光秀は信長を襲ったのか??
@怨恨説 A野望説 B朝廷黒幕説 C足利義昭黒幕説 D徳川家康黒幕説
秀吉の経済力を最大限利用した戦略で予定外の速さで敗北してしまい、光秀の謀反は怨恨
によるもの、あるいは野心からでた説が有力されていますが。
光秀ほどの人物が単独で天下を取れるとわ思っていなかつたでしょう、その背後に影の人物
がいたとする共犯説が云われる。
共犯説の根拠は、事件の3日前、愛宕山の連歌の時、光秀は
    「ときは今あめが下知る五月哉」
とき={土岐}光秀の出身地   あめが下知る= [天が下知る]
この句によってクーデター決行を誰かに予告したのでしょうか???
事件の最大の謎は、なぜ信長が1000人余りの部下だけで本能寺に宿をとったか、光秀があ
らかじめ知らされていたとすれば、それをお膳立てした黒幕がいる。
 
事件の前日、信長は茶会を催し、博多の商人で茶人でもある島井宗室を招いている。
宗室の持つている茶道具を手に入れたがっていた。とすれば、茶器をエサに信長をおびき寄
せたとも思われる。
この時、信長の茶頭役であったはずの堺衆の津田宗及や千利休は、堺の方で徳川家康接待
の茶席を催していて、この茶会には出ていない。
信長暗殺と同時刻の六月二日早朝、家康は光秀ゆかり地である伊賀を通り、攻められるどこ
ろか守られて帰ったというのだ。家康と光秀の接点はここに見い出せる。
結局、光秀は秀吉に討たれ、三日天下成りますが、家康が最終的に勝利しますが、徳川幕
府のブレーンとなった天海僧正は光秀と説もあり、同じ坂本に住み又、日光東照宮に光秀
の家紋である梗紋を使っている、中禅寺湖や華厳の滝が見える平らな場所がある。ここを
明智平という。天海は明智平に来たときに「良い名だ。とても懐かしく遠くの事のようだ」とい
う意味のことを言ったという伝説が残っている。
光秀の甥、斎藤利三の娘(春日局)を三代将軍家光の乳母に、わざわさ光秀と縁のある女性
を選んでいるところ見ると、光秀に特別な思いがあったのか???。
 
天正15(1542)年、秀吉により現在地に移された。 本能寺址石柱は中京区油小路通蛸薬師
山田町。現在の本能寺小学校[廃校}あたり。

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