(3話 )

1999年10月1日・更新

那須与市の墓

ところ 東山区泉涌寺山内町

東福寺へ紅葉を見に行ったのですが参観者が多いので何となく泉涌寺に足を向けて山手に行
くと左側に(即成院)那須与市の墓がある。
那須与市宗高は薄幸な武士だつた、34才で他界している。
源平屋島の合戦で馬上から70メートル先の平家方の扇の的を見事、射ち落とし両軍か「アッ
パレなもののふよ」と喝采を浴びた話は余りにも有名な話です。しかし其の後仏門に帰依、ま
もなく、早世。与市には、知られている栄誉の輝きより栄誉を捨てて念仏三昧に過ごしたその
後年に興味を感じ、人間味を感じます。
那須与市宗高は(下野国)栃木県。大田原市(近くに乃木大将。生地)に那須太郎資高の十
二人の子供の内十一人目に生まれ、十人目より1つ余計に与えられた、と言う意味で与市と
つけられた、十二人目は宮崎県の「ひつき節」で有名な大八は弟である。
(当時役人の民俗学者だつた柳田国男「後狩作詞記」により世に知られる)与市の弓は関東
一円に知られていたそして屋島の合戦洛日の出来事である、義経に命じられ神仏に祈り弓矢
をはなし、最大の名誉を得て知られ渡る琵琶法師が語り伝えた平家物語にも、その時の敵味
方を問わぬ賞賛のさまを伝えている与市はその功をもって武士としては最高の誉れを得られ
ながら、なぜ仏門に。。。
「即成院略縁起」によれば与市は義経の命で出陣の途中にわかに病にかかり、同院の本尊
阿弥陀如来の霊験をきき参籠したところ病が直った。
与市には、大きな転機だった、静かにな療養の生活中に世の無常を感じ取った・・・・
吉川英治「新平家物語」では、与市は義経とは仲が悪かつた、梶原景時の勢に加えられたが
、義経に心服慕っていたことになつている。
平家の滅亡、義仲、日の出の勢いだったその義経が、兄頼朝の勘気で奥州で果てる。
熊谷次郎直実 (平敦盛を討つて仏門に入る)が無常を感じた様に・・・・・・
与市の墓は即成院内に有り、大きなカサをつけた巨大な茶っぽい型。墓を囲んで小さなお堂
が建つている。この墓がいつのころから病気の平癒に霊験があると信仰されている与市の平
癒にあやかるかのように。日々香華の絶えたことがない。

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