(29話)

小野小町

ところ  山科区小野御霊町35

隨心院は小野小町で有名な寺であるが、全国28都道府県余りにに及ぶ「小野小町ゆかりの地」
は謎に満ちた小野小町は絶世の美女と云う伝説故に。??
小野氏は遣隋使で有名な小野妹子を祖先として小野道風(894〜966)当時の書家小野道風
は、小町の従兄にあたる人です(柳に飛びつく蛙の必死の姿を見て、書に励んだエピソードはあ
まりにも有名です)隨心院の近くに小野の里(小野一族)があったことは事実です。
絶世の美女と云われる小町小野小町の屋敷後に残る井戸で小町が朝夕この水で化粧をこらし
た深草少将が通い続けた日数を小町が榧(かや)の木の実で数えていたという伝説もあるが、
しかしなぞが多い、この時代の女流作家はよく手紙や日記を書いているが、残しているものは
「古今集所載歌十八首」のみである。
 
紀貫之が挙げた六人の歌人「六歌仙」身分の低い官人や僧たちの中から六人を選んだのが、
六歌仙と呼ばれる歌人たちであった「在原業平(平城天皇の孫)・僧正遍昭(桓武天皇の孫)
・大友黒主・小野小町・喜撰法師・文屋康秀(他4名生没年未詳)
決して高い評価を与えてはいない。貫之が高く評価したのは、人麻呂・赤人を筆頭とする万葉の
歌人たちであった。
 
小野小町という名は、平安時代、女性は実名では呼ばれず、父や夫の役職名で呼ばれること
が多。つまり清少納言は父の清原元輔が少納言であったため、清と少納言から清少納言と呼
ばれた。小野小町も小野氏の娘であったと考える、天皇の妻は(順位)皇后・中宮・妃・女御・更
衣・女御までは殿舎が与えられたが、それよりも身分が低い更衣は部屋(局)を与えられてた。
その局町といった。要するに小町の名は天皇の妻である更衣だった可能性が高い。
この時代に小野氏出身で宮使いをした女性は小野吉子で、承和9年(842)に正六位上に任じ
られている。これは更衣に相当する地位だ。仁明天皇の時代は、宮廷文化(和歌文学)が栄え
天皇の妻という地位にあったわけだが、小野小町の歌には幸せを詠い上げたものはない。
 
  「思ひつつぬればや人の見えつらむ  夢としりせばさめざらましを」
 
夢のなかでしか恋しい人に会えないと嘆いた、その相手は当然、、仁明天皇。とすると、13人
いたとされる妻の一人として、愛情を勝ち得るのは難しいかったらしい。当時の歴代天皇の妻の
半数以上(4・5人)が藤原系である、娘を送り込むのは権力把握の手段され、美貌と詩才に恵ま
れていても、小野家のバックアッブがいまひとつだつたのでしょう。
 
仁明天皇の時代に紫宸殿前の梅を桜に変えた華やかな宮廷文化始まりでもあった。嘉祥3年
(850・41歳) 深草に葬られました この時小野小町(30歳)出家して隨心院へ隨心院から伏
見・深草4キロ道を百夜通したのでしょうか?
 
        「花の色は
             うつりにけりな   いたづらに
                  わが身世にふる  ながめせしまに」

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