(28話)

安倍晴明

 ところ  京都市上京区堀川通一条上ル

小説・マンガが火付け役となり、TVドラマ等でいまや安倍晴明ブームはピークとなりつつありま
す超常能力によって平安の都の鬼、妖怪、怨霊などを鎮めたとされている。なるほど昨今の国
内情勢を見るとブームになるのが理解できる
安倍晴明の邸宅跡として有名な場所として、京都市上京区堀川通一条上ルの晴明神社があり
ますでもこれはちょっとおかしい。神社の位置は一条通(平安京の一条大路)より北側ですので
で、これでは晴明は平安京の外に住んでいたことになってしまいます。この場所を晴明の邸宅
跡とするのは、応仁の乱で廃虚??つまり、ここが晴明の邸宅跡というのは史実ではありませ
ん。
 
晴明の邸宅を推定できる信頼できる史料は『今昔物語集』『大鏡』の2点あります。
『今昔物語集』巻24には「晴明の家は、土御門大路(現在の上長者町通)からは北、西洞院大
路(現在の西洞院通)から東にあった」とあり、『大鏡』巻1には「晴明の家は、土御門大路と町
口小路(現在の新町通)の交差するあたりとしています。
つまり、今の京都ブライトンホテルの敷地の南側のあたりです。
行ってみると、民家とブライトンホテルの駐車場があるばかりで、晴明の家の跡を忍ぶものはまったく何にも
ありません。
 
橋というのは、ムラ境・峠・辻などと同様に、境界の象徴です。戻橋は、平安京の北端・一条大
路を南北に流れる堀川にかかる橋ですし、平安京に入ってくる疫神をさえぎる、特別な祭祀空
間でした。
死んだ三善清行が子の浄蔵の祈りによって蘇生した話、渡辺綱が美女に化けた鬼に会う話な
ど、数多くの不思議な伝説があります。安倍晴明はこの橋の下に式神を隠し、用のあるときに
呼び出していたそうです(『源平盛衰記』巻10)
橋の下に降りてみると、真夏のなま暖かい風がいまにも式神が現れるんじゃなかと、おもあせる
 
安倍晴明は、延喜21年(921)に大膳大夫安倍益材の子として生まれ、寛弘2年(1005)に85歳
で没した。前半生はいささか不遇で、40歳になってもまだ天文得業生(てんもんとくごうしょう 陰
陽寮天文道に属する特待生)の地位に甘んじていたが、40歳代後半に陰陽師(単なる陰陽道
の専門家ではなく陰陽寮に属する公式の官)となってからは道が開けた。50歳代前半には陰陽
寮天文道の責任者である天文博士に任じられ、位階も正五位下から正五位上へと昇進してい
く。天文博士の位階は正七位下が原則であるから、これは異例の出世といえよう。
TVドラマより年齢は30代程差がありますが
70歳を過ぎてからは主計権助(かずえのごんのすけ)から大膳大夫(だぜんのだいぶ)、左京権
大夫(さきょうのごんのだいぶ)、穀倉院別当(こくそういんべっとう)を歴任し、位も従四位下まで
昇進したから、中級貴族としては満ち足りた晩年を送ったに違いない。
晴明のお墓と伝えられる「晴明塚」は、日本中あちこちにあったようですね。もちろん、日本中の
「晴明塚」に本当に晴明の遺体が葬られているわけではありません。「晴明塚」とは、晴明が生
きた時代よりももっと新しい時代に、占い・加持祈祷を生業にする声聞師(下級陰陽師)が自分
達の祖師として晴明を祭ったものです。
ですから彼らの活動拠点となる橋のそばや、街道沿いに残されていることが多いのです。
 
晴明をなのる石仏
京都市内の地下鉄工事のための発掘調査で、不思議な石仏が発見されました。発掘調査され
のは、織田信長が足利義昭(最後の将軍別名手紙将軍)のために建てた古二条城(今の二条
城よりかなり東、二条新第といいます。信長は二条新第の石垣に多くの石仏を使い、都の人々
に恐れられたと伝えられていますが、事実、発掘されたその石垣にも多くの石仏が使われてい
たのです。
そのなかのひとつに、「清明 ☆」という銘文が彫られているものがあります。清明はもちろん
晴明のあて字。星のマークは、まぎれもなく五芒星。ただし石仏は鎌倉時代後期のもの。文字
が彫られたのは室町時代と推測されています、豊臣秀吉の陰陽師集団への弾圧によって解体
されました。
石仏は現在、西京区・洛西ニュータウンにある竹林公園内に安置されています。
其の他
東福寺の門前道路晴明屋敷や晴明の墓(晴明塚)があったという伝説が残されています。
牛若丸と弁慶の出会いの場として有名な現在の五条大橋鴨川の洪水鎮護のために建てたもの
だという伝承をもっており、その境内には晴明塚も存在していました。(法城寺)

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