(24話)

釜ヶ淵

ところ  南区東九条東松ノ木町前川原

石川や浜の真砂子は尽るとも
            世に盗人の種は尽きじ

有名な辞世を残して処刑された大盗賊・ときに・三十七年の生涯を終えた。
だが、この大盗賊、生前のこととなると、わからぬ事が多い。一説に秀吉時代に活躍した三
好氏の家臣・石川明石の子とも云われている。一説には遠州浜松の生まれで、真田八郎と
称したが、のち河内国石川郡の医師・山内古底によって改名したとも。。。。。罪業のかずか
ずはとん不明だ。
 
歌舞伎によれば、ぼうぼうに伸びたさかやきの百日かづら、どてらに長キセルをふかしたい
でたち。南禅寺の桜門から身を乗り出して、
「絶景かな、絶景かな・・・・」
同じ泥棒でも、そんじょうそこらのこそ泥とは大違い。貫禄十分の大盗賊である。
しかも義賊とあってはお役人には目の敵であっても、庶民からはヤンヤのカッサイ。おかげ
で五右衛門にまつわるエピソードは京都に多い。
 
釜ヶ淵伝説もその一つ。釜ヶ淵。。。。。。。。つまり東九条の陶化橋の北、鴨川と高瀬川の
合流点から三百メートルほど北にいったところである。
五右衛門が一子ととに三条河原で釜ゆでの刑にされたのが、文禄3年(1594)。
二人の人間をイモのように煮たのだから、釜はいかにもお大きかったのだろう。処刑のあと、
釜は鴨川に捨てられた。
大きな釜は鴨川の流れに流れてドンブルコ。うちあげられたのが、東九条の釜ヶ淵だった。
あたりは鴨川の流れが南から西南に曲がる所で、なにかにつけて、うち上げられた瀬である
「こんどは、えらい大きな釜がひっかかっているぞ!!」
「三条河原で、先ごろ、五右衛門が処刑されたと聞いている。きっと、その釜じゃないか」
「五右衛門の釜だ!!」
人々は、あたるとさわると噂で持ち切り。だれ言うとなく、その後、この瀬を釜ヶ淵と呼んだの
だった。
その一年後、関白秀次の遺児、妻妾39人が処刑され真っ赤な(血)流れも漂っただろう。
 
他にも、この伝説が一説あります。
健仁寺の栄西禅師(1141〜1215・ 茶の栽培)が河原院(源融邸遺跡、河原町五条あたり)
の鐘を引き上げたところか。
もと鐘ヶ淵といったのが釜ヶ淵になったというのである。
流れついた鐘は重くて、なかなかあがらなかったそうで、禅師は人夫に、「”栄西長首座(え
いさいちょうすざ}”と声をかけよ。鐘は上がろう」と、命じた。
人夫はいわれたとうり、かけ声をかけると、鐘は軽々と上がった。
”エッサ・ヨッサ”のかけ声は、この”栄西長首座”が、なまったと云われる。
栄西禅師の茶は自動販売機でもよいが、”エッサ・ヨッサ”のかけ声は不景気を飛ばす声に
したいものです。
 
五右衛門の墓は下京区寺町通四条南、大雲院内にある。戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」
泥棒だからこそ?あの世で更生してくれるように、つけられたものかもしれない。

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