(168話)

勧修寺

 ところ          山科区勧修寺仁王堂町27?6

京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は
醍醐天皇開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院で
ある.。
山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、門跡寺院の格式を表している。境内東側には手
前から宸殿書院、五大堂、本堂などが建つ。境内西側は氷室池を中心とした庭園であり、池に面し
て楼閣風の観音堂(昭和初期の建立)が建つ。
孫胤子(インシ)が宇多天皇の女御、醍醐天皇の生母となったことに由来します。醍醐天皇は昌
泰3年(900年)、胤子の遺志により伽藍を創建し、勧修寺としたと伝えられます。
『今昔物語集』には次のような高藤と列子のロマンスが伝えられている。藤原北家の流れを汲む
藤原高藤は、鷹狩が趣味であった。ある時、鷹狩のため南山階(みなみやましな、京都市山科区)
に来ていた高藤は、雨宿りのためたまたま通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れた。勧められるまま
に弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。翌日、鷹狩から
帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・良門は激怒し、高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁した
その後、高藤と列子は長らく音信不通であった。それから6年後、高藤はようやく列子と再会する。
列子には娘がいた。6年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。この娘こそが後に宇多天皇
の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である。
勧修寺境内からは東山と醍醐の山々が望め、それが庭の借景となってきました。しかし、昭和38年(
1963年)に開通した名神高速道路が敷地の北側から西側にかけてのすぐ脇を通ったために景観が損な
われたこの様な寺院良く全国で見かける。

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