(163話)

広隆寺

ところ         左京区太秦蜂岡町32

京都最古の寺院である。国宝彫刻の部第一号の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子
信仰の寺でもある、仏像だけでも国宝が17体、重要文化財が31体もある。
広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとあるが
『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを
拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝(はたのかわかつ)が、この仏像を譲り受
け「蜂岡寺」を建てたという。一方『書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがあ
る。これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられ
た「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。
836年(承和3)作成の『広隆寺縁起』は、別の創建伝承を伝えている。あるとき聖徳太子は秦河勝
に次のような話をした。「私は昨夜、不思議な夢をみた。香ばしい香りに満ちた桂(かつら)の林の中
に大きな枯れ木があり、五百羅漢がその下に集まってお経を読んでいる。枯れ木からは大光明が放
ち、羅漢の読経が微妙な声で仏法を説いているように聞こえ、まことに格別な霊地に思えた」。
すると、河勝は「その場所は我々が住む葛野(かどの)です」と答え、その場所へ聖徳太子を所へ聖徳
太子を案内した。そこでは、大きな桂の枯れ木の周りを無数の蜂が飛んでいて、その蜂の群は羅漢が
説法しているように見えた。そこで、仮宮殿を造って楓野(かえでの)別宮となずけ、河勝に命じて蜂岡
寺を建立させた。楓野別宮は桂宮院のことであり、現在の建物は鎌倉時代の再建だが、国宝建造物と
して広隆寺の奥に建っている。
 
秦 河勝(はた の かわかつ、生没年不詳)秦氏は、秦(中国)から渡来した漢民族系の帰化人であり朝鮮
半島を経由し日本に渡来した。葛野郡(かどののこおり、現・京都市右京区南部・西京区あたり)を本拠
とし、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であった。
 
日本書紀記載の推古31年(623年)新羅から伝来したものとする説が有力であった。ところが1968年、大
きく抉られた内繰りの背板に楠材が使用され、背部の衣文もこれに彫刻されていることが判明し、断定
できなくなっているが、特に背板に楠材が使用されていることは、楠が朝鮮半島南部に自生しているが、
日本での使用例が多いため、日本で造像された可能性も出てきた、当時は漆で金箔を貼り付けた漆箔
像であった。
 
この寺の創建にかかわる逸話が『日本書紀』に記されている。603年(推古11)11月聖徳太子は群臣を
前にして、「私は尊い仏像を持っている。だれかこの仏を祀るものはいないか」と尋ねられた。
そのとき秦河勝(はたのかわかつ)が「私が祀りましょう」と名乗りで、仏像を拝領した。そして、その仏像
を祀るために建てた寺が、今の広隆寺の前身である蜂岡寺である、というのだ。

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