(155話)

法界寺

ところ           伏見区日野大道町

京都と宇治の中間にある。この日野に阿弥陀堂と阿弥陀如来座像の二つの国宝をもつ法界寺がある。
藤原(北家)家宗の山城国宇治郡日野(京都市伏見区)法家寺を建立して最澄自作の薬師如来の小像を
祀ったという伝承があるその後代々この薬師如来を伝承し、永承6年(1051年)、子孫の資業があらため
て薬師堂を建立し、別名を日野薬師とも称した。これがその後資業を始祖とする一門の氏寺となり、名
字も藤原から日野と名乗るようになった(日野資業)・・・・・・・・室町幕府3代将軍足利義満の正室であった
業子及び康子以来、将軍(室町殿)の正室は日野一門から出す例となり、4代義持の正室栄子、6代義教
の正室宗子、8代義政の正室富子
 
この地意外な事に歴史的に重要な人物を出している悪女と聖人を育てた地「悪女」とは、日野富子で
ある、戦乱(応仁の乱の十年余り)で苦しむ庶民をよそに巨万の富を築いた「悪女」「守銭奴」と評
される事も多く、夫の義政が東山山荘の造営のため費用捻出に苦心していたときは、一銭の援助もし
ていない。一方で、火災で朝廷の御所が焼け、修復するため膨大な費用が必要になったときは自身の
蓄財から引き出した、その活動に対する庶民からの評価は決して高くなく、お金儲けに熱中した悪妻
と囁かれた殆どの文化遺産を破壊したのは残念事だ。 明応5年(1496)に死没。57歳。
 
親鸞聖人(1173−1262)
四歳で父君、八歳で母君と死別され、世の無常に驚かれた親鸞聖人は、 九歳で出家を志し、比叡山
天台宗の僧侶と成る29歳の時、深く出離の要道を求め、京都六角堂に法然上人を訪ね、100日参籠し
、興福寺などの告訴によって、法然上人以下の流罪に際し、親鸞も 越後国に流罪となって流される5
年に後帰洛を許されるが関東方面に念仏の布教をはかっている、60歳を過ぎたころ京都に帰り90歳を
もって入滅した。四男三女のうち末子の弥女(いやによ)がその廟を守った。親鸞は生涯を名も無い
人びとの間に過し、当時の記録にその名さえどどめなかった。もちろん彼自身が浄土真宗という一派
を開くという意志は持たなかったが、弥女の孫覚如(本願寺第三代)が諸国の信者を統一し、後代の
本願寺繁栄の基礎を固めた。
親鸞は法然を師と仰いで、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さ
らに高めて行く事に力を注いだ。独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教
化する形をとる。「機に真実無し」という実践的立場から、如来の他力廻向の救済を信知し、絶対他
力の念仏を強調した。とくに悪人正帰自然法爾の説は親鸞教学の特色であるといわれている。著書は
以上のほかに『如来二種廻向文』『阿陀如来名号徳』などがあるが、
 
一休宗純(一休さん)(1394-1481)
一休は後小松天皇と日野中納言の娘・照子姫の落胤(らくいん)が皇胤説が有力視される後小松天皇
の寵愛を受けていたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだ
早くから詩才に優れ13歳の時に作った漢詩『長門春草』、15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中
の評判となり賞賛された。
81歳の時応仁の乱で荒廃した臨済宗大徳寺を再建した、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。
88歳入滅、自由奔放で、奇行が多かったと言われる。学ぶべき多くの逸話がある。
 
*門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし
 
*木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めて
いれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当
時の世相を批判したものであったとされる。
 
*親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がりこみ、蓮如(親鸞の弟子)の持念仏の阿弥陀
如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如上人は「俺の商売道具に何をする」と言って、ふたりで
大笑いしたという。
 
道元禅師(1200年 - 1253年)
日本曹洞宗の開祖と 浄土真宗の開祖親鸞とは、(互いに生家が公家ということもあり)母方の縁戚にあた
り面識があったとする説がある又木幡(木幡より2k内)の松殿山荘で生まれたとされた、3歳で父(通親)を、
8歳で母を失っている、境遇などが、類似している??
 
鴨長明(1155 ー1216)は平安時代の末期の歌人 方丈記晩年、日野山に方丈(一丈四方)の庵を結んだ
ことから「方丈記」と名づけた励んだ。親鸞・道元とは同年代であり3人は顔をあわせただろうか、この地聖
人と相反する悪女を育てた地リーダー(足利義政)が賢者なら富子も賢女で在っただろう??

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