(153話)

元慶寺

ところ        山科区北花山河原町13

応仁の乱で一帯が焼け野原となった記録があるので、後年、現在の場所に移ったとされる元慶寺の始
まりは、清和天皇の第一皇子、貞明親王(陽成天皇)の誕生の翌年、貞観十一年(869)僧正遍照の発
願により親王の母藤原高子が創建した花山寺を、元慶元年(877)に陽成天皇によって定額寺に列せら
れて年号寺、元慶寺と改した。
 
寛和二年(986年)、花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、兼家の外孫
である懐仁親王(一条天皇)が帝位についた。
『栄花物語』『大鏡』などでは何が素因とし19才で皇位を去り、剃髪して仏門に入り退位したか??!!
この前代未聞の椿事について、『栄華物語』では「寵愛していた弘徽殿女御こと藤原緒子(よしこ)と死別
し、悲嘆のあまり世を儚み出家を決意した」と、花山帝の心境を伝えています。しかし『大鏡』では、天皇
は右大臣の藤原兼家一家の策謀にはめられたとしており、生々しい事情が書かれています花山帝はま
だ子供がなかったため、皇太子に従兄弟の懐仁親王を立てていましたが、彼は兼家の娘が生んだ子で
した。一刻も早く孫を帝につけ実権を握りたいと願っていた兼家は、天皇が弘徽殿女御の死で厭世的に
なっていると耳にし、天皇を退位させようと計画を巡らせたのです。
まず兼家の息子の道兼が、天皇へしきりに「この上は御出家され、女御様の菩提を弔う生活をなさい
ませ。私もお供いたします」と勧めました。説得に心を動かされた花山帝は、道兼の導きで秘かに宮
中を脱出。ところが剃髪の直前、道兼は「父に最後の挨拶をしたいので」と言い出し、寺を立ち去ってし
まったのです。
その間に兼家らは、三種の神器を懐仁親王のもとへ運び込み、即位の準備を済ませていました。道兼
がいつまでたっても戻らぬため、天皇はようやく自分が騙されたと気付きますが、時すでに遅しでした。
天皇を迎えに来た義懐は、頭を丸めた花山帝を見て自身の政治生命の終わりを悟り、その場で自分も
出家してしまったそうです。
こうして懐仁親王が一条天皇として即位、兼家は念願の摂政に就任し我が世の春を迎えました。この
兼家の四男が、有名な藤原道長。
 
花山は絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造はたび
たび人の意表を突いた。『拾遺和歌集』を親撰した、又羨ましい程の女性に持てた花山院(菩提寺)
法皇を慕って11人の女官たちが花山院を訪れたが、女人禁制のため参道を登ることが出来ず、尼寺
を造り移り山麓に住み琴を弾いてその思いを伝えたという。「琴弾坂」の名称はこれに由来している歴史
の表舞台に出ないが今も西国観音霊場三十三ヶ所の宝印で親しまれている庶民派の天皇・・・・・・
西国観音三十三ヶ所のでは(番外元慶寺)である。

HOME *** ***NEXT