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永観堂

ところ              左京区一乗寺門口町27番地

空海の高弟である僧都・真紹が仁寿3年(853年)、歌人・文人であった故・藤原関雄の邸宅跡を

買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じら
れていた、当時の清和天皇より「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。
当初は真言密教の道場であったが、平安時代に永観が浄土念仏を唱えて専修念仏道場となり、永
観堂の名がついた。
本堂で永観律師が一心不乱に念仏行道中に、本尊である阿弥陀仏が動き出し、壇を下りて一緒に
行道を始めた。驚いた永観律師は立ち止まり唖然とそれを見ていた。それを見とがめた阿弥陀様
は後ろを振り返り「永観、遅し!」と叱ったのだという。{みかえり阿弥陀}
もともとこの地は平安時代の初期の文人・藤原関雄の山荘で、その当時から紅葉名所として評判
でした。
当初真言宗の僧であったが、鎌倉時代に法然に帰依し、念仏門に入った現在は浄土宗西山禅林寺
派の総本山。国宝重文級五十八点
もともとこの地は平安時代の初期の文人・藤原関雄の山荘その当時から紅葉名所として評判でした。


みかえり阿弥陀
本堂で永観律師が一心不乱に念仏行道中に、本尊である阿弥陀仏が動き出し、壇を下りて一緒
に行道を始めた。驚いた永観律師は立ち止まり唖然とそれを見ていた。それを見とがめた阿弥
陀様は後ろを振り返り「永観、遅し!」と叱ったのだという。
藤原関雄 私寺を建立することは禁じられており
平安前期を代表する文人。冬嗣の兄真夏の第5子。天長2(825)年春,文章生試に合格したが,
「閑退を好み,常に東山の旧居に在りて林泉を耽愛」し出仕せず,「東山進士」と呼ばれた(『文徳実録』

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