(150話)

藤原頼長(保元の乱)

ところ         上京区相国寺門前町(相国寺総墓地内)

もともと左京区の熊野神社の西南、東竹屋町東部の地にありました。明治40年(1907)絹糸紡績会社
の工場増築にともない藤原頼長の首塚は壊され石塔が相国寺に移された。
平安時代末期の貴族公卿兄の関白忠通を差し置いて左近衛大将を兼任する膨大な和漢の書を読み「日
本一の大学生、和漢の才に富む」とその学識の高さを評された。しかしながら彼は酷薄で他人に容赦の
ない性格でもあり「腹黒く、よろずにきわどき人」とも評され、悪左府と呼ばれた。また、儒学を好み誰しも
が認める博識であったが、執政の座について朝議復興に辣腕を振るい、鳥羽法皇の寵幸を受けた。
又朝議を遅刻や休む者の屋敷を焼き払ったり厳しい性格だった、しかしながら、近衛天皇は頼長をあか
らさまに嫌っていた。家人に命じて鳥羽法皇の寵臣である藤原家成の邸宅を破壊させるという行為に及ん
でおり、これを境に徐々に法皇からの信頼を失っていくことになり事実上失脚する。
鳥羽法皇から無理強いで譲位させられて以来失意にあった崇徳上皇に接近し鳥羽法皇が崩御すると政
権奪取を図り、崇徳上皇の御所白河殿に源為義・平忠正・源頼憲らの武士を集めた・・・後白河天皇も源
義朝・平清盛らを集め一触即発の緊張が高まり、崇徳対後白河の勢力争い「保元の乱」が起こる。
軍議で源為朝の「夜討を仕掛けるべし」との進言を頼長は「夜討は卑怯」と退けた。だが、逆に後白河方か
ら夜討を仕掛けられてしまった。戦闘においては、上皇方にあった鎮西八郎為朝の奮戦も見られたが、結
局は数に勝る後白河の勝利に終わる。崇徳は配流され讃岐での軟禁生活を頼長は奈良・般若寺で敗死し
た。
 
「今鏡」という書物には、なかなかの美形だったと記されており、長は男色趣味であった。台記という頼長の
日記がある。その中に赤裸々にホモってしまった話が登場する。特に武士とか近衛府の役人、武官がお好
きようで、次々襲って犯して喜んでいる。また、公卿や北面の武士などともお盛んであったようだ最も穏やか
な時代だった。
 
*天皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった
。数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す中世という時代の到来を示す
ものとなった、以後貴族社会(院政)が終わり平治の乱_源平争乱_武家社会に!!

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