(143話)

上品蓮台寺

ところ          北区紫野十二坊町33-1

平安時代以来、蓮台野は墓所として知られていた。「五三昧」のひとつといわれ、三昧は火屋、火葬
場のことを意味し、周辺には墓地なども散在していた。
かつての葬地にある上品蓮台寺 (じょうぼんれんだいじ)は、は蓮華金宝山九品三昧(くぼんさんまい
)院、十二坊 ともいわれる。真言宗智山派。本尊は延命地蔵菩薩像。
歴史飛鳥時代、聖徳太子が母の菩提寺として開基と伝えられる。当初は香隆寺(こうりゅうじ)と称
した。平安時代、960年に第59代・宇多法皇の勅願により、寛空僧正により再建され、上品蓮台寺と寺
名を改めた。かつては広大な寺域の大寺院だったが、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により
焼失した。安土・桃山時代、文禄年間(1592-1596)に性盛上人により復興され、当寺と十二の子院が
建立されたことから十二坊とも呼ばれた。
釈迦像平安時代中期の東大寺の僧・「然(ちょうねん、938-1016)が、宋から持ち帰った釈迦如来立
像(嵯峨の釈迦、生身如来)は、987年、上品蓮台寺に一時安置されている。「然の没後、清凉寺建立
にともない移された。
平安時代後期の仏師・定朝の墓。平安時代、酒呑童子退治で知られる源ョ光の墓と伝えられる頼光
墓,空海の母の塔という阿刀氏(あとし)塔。室町時代の金工・後藤祐乗墓などがある。
また、頼光にこの地で退治されたという土蜘蛛が埋められた蜘蛛塚もある。文化財として第62代・村上
天皇勅額。著色絵因果経(国宝)、著色文殊菩薩画像(重文)、著色六地蔵画像(重文)など。サクラの
名所としても知られている。
 
境内の墓地の一角には、弘法大師・空海の母の墓とされる「阿刀氏(あとし)塔」が立っている。五輪石
塔で、由緒書はないが、阿刀氏は空海の母の家系。空海が母方の伯父・阿刀大足に論語、孝経などを
学んだ・高さは約二・五メートルあり、船岡山の木々を背景に、立ち並ぶ墓石の中でも、ひときわ目立つ
この石塔はかつて、肺病祈願で知られた。慈悲深かった空海の母にちなむらしい。「京都・山城 寺院
神社大事典」(平凡社)によると、石塔の前で、病人が身に触れた衣服を祈とうして焼き、その灰を飲む
と全快したという。治療方法がなかった時代、切実に回復を願う庶民の姿が目に浮かぶよう今では訪れ
る人もないが、山門の北脇にひっそりと置かれた「大師母公跡 肺病平癒霊塔」の石碑が名残を伝えて
いる。
 
阿刀氏塔がなぜこの寺に建てられたのかは定かではない。ただ、空海が開いた東寺から、ほぼ七キロ
真北に位置し、市内にビルが立ち並ぶ前は、上品蓮台寺から東寺の五重塔が望めたという。
上真北に位置し、市内にビルが立ち並ぶ前は、上品蓮台寺から東寺の五重塔が望めたという。品蓮台
寺は別名「十二坊」という。かつて十二の塔頭があった名残で、寺に伝わる絵図には千本通の両側に
寺が立ち並ぶ様子が描かれている。現在の塔頭は三カ寺だが、地名には「十二坊」が残っている。
 
平安京三大葬送地「鳥辺野」「蓮台野」「化野」古くから高貴な方々の葬地であり鳥 戸野(山手)、いっぽ
うの鳥辺野は庶民の葬地でした 小児は西院の河原 (さいのかわら)に葬るこ とに定められていた。
 
空也上人(931-957)日々捨てられた小児の屍を河原の石を重ねて塔婆になぞらえ、死者の菩提を弔っ
た、、「さいの河原の地獄」の伝 説を生むのにふさわしい荒涼たる土地であったろう。
・・・・・・・・これはこの世の事ならず死出の山路の裾野なる・・・・・・・聞くにつけても哀れなり 地蔵和讃
(空也上人の作)

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