(141話)

金戒光明寺

ところ          左京区黒谷町121

承安5年(1175年)春、法然が比叡山の黒谷を下った。その後岡を歩くと、大きな石があり、法然はそ
こに腰掛けた。するとその石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた
法然はここに草庵を結んだが起源、法然が最初に浄土宗を布教を行った地である,この寺平安時代か
ら江戸末期まで多くの逸話と歴史を刻んで来た.。
 
直実鎧掛けの松
熊谷次郎直実、は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将一ノ谷の戦いで平敦盛を討ち取った事で知ら
れている。殺生の虚しさに気付き、以後源平の戦いには参加しなくなる。法然と出会った後、徐々に
敦盛の供養のために出家を模索するようになる。直実はここ黒谷に至り、鎧を洗い、それを松の枝に
かけ、馬をつなぎ、法然上人の門を叩いた。法然に自分の心のうちを話し、出家、そして庵を結び
蓮生法師となったという。京都府長岡京市粟生の西山浄土宗の総本山、光明寺(こうみょうじ)は
法然を慕い弟子となった蓮生が、建久9年(1198年)に念仏三昧院を建立したことに始まる。遺言によ
り遺骨は、西山の念仏三昧堂(粟生光明寺)に安置されたとされる。
直実鎧掛けの松 - 直実が決別(出家)を決意し、鎧を洗いそれを掛けたという松。もとの松は枯れた
が、それを引き継いだ二代目である。平成15年に京都市指定保存樹。
 
寺を城
徳川家康は幕府を盤石なものにする為直割地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊
が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとしているのである、小高い岡に
なっている黒谷は自然の要塞になっており御所まで約2q、粟田口(三条大橋東)東海道の発着点ま
では1.5q西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる、高台寺からね
ねが大阪城の炎上を確認をしていた記録が残っている。
禁門の変で長州は嵯峨天龍寺や山崎の石清水八幡宮に数千兵を駐屯させていた、本陣は駐屯の整った
寺が最適だつた応仁の乱で多くが消滅し再建出来ずに廃寺となった、戦国時代の野戦とは違い野宿で
はなくきちんとした宿舎が必要とした。
 
京都守護職と新選組
幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。文久二年(一八六二)
に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職
である。会津藩は京都守護職に任命されるにあたり固辞をしたが、藩祖保科正之(三代将軍家光の異
母弟)の「家訓(かきん)」に順じて容保が決意したものである。守護職を拝命する、会津藩松平容保
は家臣一千名を率い文久二年京都三条大橋に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受け、本陣
となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、威風堂々とした会津正規兵の行軍が一里余りも続いた。こ
の間、京の町衆も両側に人垣を作り大歓迎するが会津とっては悲劇の始まり
幕府が文久二年将軍上洛警備のため浪士組を結成したことに始まる近藤勇・土方らは、水戸浪士芹沢
鴨等とともに京都残留を希望し、老中板倉勝静は京都守護職松平容保に浪士差配を命じ、近藤・芹沢
らは京都残留の嘆願書を守護職に提出、京都守護職御預かりとなった。近藤・芹沢等は黒谷で京都守
護職松平容保に拝謁がかなった。政変(七卿落ち)の日、武家伝奏より『新選組』の命名とともに市
中取締の命を受け、都大路を縦横無尽に走り廻り治安は目立って回復した。新選組の壬生の屯所と黒
谷本陣との間では報告・伝達が毎日のように行われていた。
 
侠客 会津小鉄
会津小鉄は本名上阪仙吉といい、会津藩松平容保が京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、
裏は、新選組の密偵として大活躍をした。しかしながら、会津藩が鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着
せられ戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを子分二百余名を動員し、迫害も恐れず収
容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したという。以後も、小鉄は容保公の恩義に報いんが為に黒谷会
津墓地を西雲院住職とともに死守し、清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っている。
文久二年〜慶応三年の五年間に亡くなられた二百三十七霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五霊を祀る
慰霊碑がある。
現在西雲院では、六月の第二日曜日に会津藩殉難者追悼法要を会津松平家第十三代当主松平保定様
ご列席のもと京都会津会主催で盛大に勤められている。

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