(140話)

高台寺・圓徳院

ところ         東山区高台寺下河原町530

高台寺表門の通の向に高台寺・圓徳院の墓地に木下長嘯子の墓がある。彼の名は木下勝俊、秀吉の義
理の甥、つまり北政所の兄、木下家定の子である。二十才で若狭小浜八万石の領主、左近衛権少将に
任ぜられた。関ヶ原の合戦では東軍に属し、家康不在の伏見城を守ったが、実弟小早川秀秋が始め西
軍に属していたので、仲間の守将鳥居元忠から勝俊自身の去就を疑われて、巍然たる態度を示す気概
に欠けていた。そこで敢えなく城を退去して、叔母の北政所にすがるしかないという体たらくになった。
一方伏見城は四万の西軍を引受けて籠城十日にして落城となり元忠は見事切腹である。徳川家康
に裏切り者とされ領地を奪われてしまいます。これが彼を裏切り者と決めつけ、彼が出家して東山霊
山に隠棲し、後年長嘯子は小沢蘆庵あたりから「心ざま武士に似ず」と攻撃されている。
あらぬ世に身はふりはてて
             大空も袖よりくもるはつしくれかな
 
東山霊山に隠棲して文人としての道を歩み始めると解き放たれたかのようにその才能に磨きをかけて
いきます。もともと文雅の才に恵まれ、細川幽斎に和歌を学ぶなど若い頃か才能を発揮していた木下
勝俊公は、雅号を長嘯子と名乗って松永貞徳や林羅山、小堀遠州、春日局や冷泉為影卿などと親交を
深め、豊かな感性から詠まれる歌で文壇をリードしていきました。、自家薬籠中の和漢の学の研鑽を
積んだ。この地にあること三十余年、月を友とした悠々の日々であったが、北政所没後は北面武士で
あった西行法師で御馴染みの洛西大原野勝持寺(花の寺)の側に庵を結び、余生を風雅の内に過ごし
た、八十一才の生涯を終えた。・・・・・・・・長谷川等伯の『山水図襖』も鑑賞できます。
 
辞世の句
露の身の消えてもきえぬ置き所草葉のほかにまたもありけり
 
木下長嘯子を祀る歌仙堂。石川丈山の詩仙堂・雅仙堂と並び「京都三堂」と称さて居る。
*中国より移築した白川畔に「画(雅)仙堂」を言うが、残念なことに洛翠庭園は郵政事業見直しの余
で閉館

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