(138話)

 相国寺

ところ          上京区今出川通烏丸東入ル

金閣寺(鹿苑寺)でお馴染みの足利義満は南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕
府権力を確立させ相国寺塔頭建て北山文化を開花させるなど室町時代の政治、経済、文化の最盛期を
築いたが、足利義満の次男として生まれる義嗣は義満に溺愛され次いで後小松天皇が北山第に行幸し
た際に天盃を下賜される優れた才能の持ち主だったと伺える。
義満が皇位を狙って正確にはこの義嗣を皇位に据え、自らは上皇になって、足利天皇家を作ろうと目論
んで(藤原氏ように)いたと見て取れる。
義満は急死(毒殺とも言われる)したので、義満にないがしろにされていたが義持(長男)将軍に成り
その後、義嗣は不和であった義持を打倒するため、伊勢国の北畠氏と結んで挙兵しようとするが失敗
する義嗣や近臣を捕らえ相国寺(林光院)へ幽閉されて10月20日に出家させられた応永25年(1418年
)、義嗣は義持の命を受けた富樫満成により殺害された。(享年25)
容姿端麗で才気があり、笙の演奏では天才的だったと伝わる。義嗣の異例の昇進を見て、義満が義嗣
を後継者と考えていると予測した武将や公家も多かったようである。義満の皇位簒奪の意図を指摘する
論者は、義満が自らは太上天皇の尊号を受け「治天の君」となり、義嗣を天皇の位につけようとしたと推
測していようだ、この林光院には、鶯宿梅(おうしゅくばい)という由緒ある梅の古木があります。
 
歴代の将軍(鎌倉〜徳川)の内でも室町13代将軍義輝は「剣豪」「剣聖将軍」云われている義輝は幕府
権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。
その政治的手腕は、「天下を治むべき器用有」(『穴太記』)と評された。このような経緯を経て、次第に
諸大名から将軍として認められるようになり、織田信長や上杉謙信(輝虎)などは上洛して拝謁、
大友宗麟は鉄砲を献上している又自らの名前の「義」「輝」の一字を各地の大名(最上義光 島津義久
毛利輝元)に与え改名させるなど、将軍家の権威を回復させようとした。
上泉信綱・塚原卜伝に指導を受け、卜伝からは一説に奥義「一の太刀」を伝授され、鎌倉から江戸ま
での征夷大将軍の中でも、最も武術の優れた人物として伝えられている。
三好党や松永久秀らに二条御所で襲われた際には足利家秘蔵の刀を数本畳に刺し、(一刀で三人切れ
ば脂肪もつき)刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦ったという。・・・・・・・・・・このため、
足利義輝の最期は、伝えられている事柄だけでも凄まじい戦いである。館にあるすべての刀を畳に突き
刺し、刀は斬り合いをすれば、ひしゃげたり、刃こぼれをしたりして、二、三人斬れば使いものにならなく
なる。更に血脂が刀身に付着して乾いて固まると、切れ味は極端に鈍る、刀がだめになると、次の刀、
それもだめになるとその次というように、すべての刀を使って相手に立ち向かっていったという。
武人らしい覇気にあふれた姿勢や悲劇的な最期から、幕府の将軍の中でも人気の高い人物の一人
「剣豪」「剣聖将軍」と称されて居る。・・・・義嗣(享年25)義輝(享年29)共に殺害された
 
足利義輝の辞世の句
     五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで

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