更新7月18日三十三間堂

三十三間堂棟木由来

京都東山、蓮華王院。三十三間堂の名で知られるこの仏堂は、後白河上皇(在院期間中、34回と最多
の熊野御幸をした上皇)が1164年、自らの離宮・法住寺殿の敷地内に一宇の仏堂を建立し、 1001体の
千手観音像を安置したのを始まりとします。 造営には平清盛が当たり、この功により清盛は播磨守と
なりました。
俗に三十三間堂と称しますが、それは、本堂の内陣の柱間が33あることによるもので、また33という
数字は観音菩薩が33もの姿に身を変えて人を救うという信仰によるものだということです。この三十
三間堂で、「柳のお加持」という法要が行われています。正月に汲んだ初水を霊木とされる柳の枝で
参拝者にそそいで加持する頭痛封じの法要です。
この法要は後白河上皇の頭痛平癒にあやかったものなのですが、ここにも熊野が絡んできます。後白
河上皇は頭痛に悩まされていた。そこで熊野で祈願したところ、お告げがあった。
「上皇の前世は熊野にあった蓮華坊という僧侶であった。仏道修行の功徳によって今世、天子の位に
つかれるくらい高貴の方に生まれてきたが、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいる。
その髑髏を貫いて柳の木が生えていて、風が吹くと柳の木が揺れて髑髏に触れ、上皇の頭が痛むのだ
」という。
そこで、川を調べさせたところ、髑髏が見つかり、その髑髏を三十三間堂の千手観音の1体の尊像に
塗り込め、さらにその柳の木を伐って京へ運び、三十三間堂の梁に使ったところ、上皇の頭痛は平癒
したという。蓮華王院の名は前世の蓮華坊の名をとって付けられた。
岩田川。今の富田(とんだ)川の滝尻(和歌山県西牟婁郡中辺路町)辺りから下流は岩田川と呼ばれ
詣の重要な垢離場(こりば)のひとつでした。この川を1度でも渡れば、今までの罪業がこと、熊野ごとく
消えると信じられていた聖なる川。この川を徒渉し、滝尻王子に参拝。京から熊野を目指して歩いて き
た人々にとって、滝尻からが熊野の霊域の始まりでした。
仏教では柳は一切樹木の王、仏に供える最高の聖木とされているそうですが、実際、柳には鎮痛作用
があり、解熱鎮痛薬であるアスピリンは柳から作られたものなのだそうです。
 
三十三間堂の棟木の伝説は、さまざまに脚色され、哀愁物語があり!!
三重県南牟婁郡紀和町楊枝に楊枝薬師堂という小さなお堂がありますが、そこにはこんな伝説が・・・
悪人達の讒言により命を落とした横曾根光当(よこそねみつまさ)の子、平太郎は、母とともに京か
ら熊野の楊枝の里に落ちのび、二人、侘びしい暮らしを続けていた。
楊枝の里の柳の巨樹の下で騒ぎが起こった。狩りに来た武士の放った鷹が柳の高い梢に足緒をから
めて動けなくなってしまったのである。主の武士は、家来に命じて助けようとしたが、その柳の木は あ
まりにも高く、誰にも登ることができない。主は怒って、その柳の木を伐ってしまうよう命じた。
そんなとき、平太郎がそこを通りかかった。平太郎は武士から弓矢を借りると、梢めがけて射放った。
矢は枝にからまっている 足緒に見事、命中。鷹は無事に柳の枝から逃れることができ、柳の木も伐れ
られずに済んだ。
その数日後、平太郎は柳の巨樹の下で一人の美しい娘に出会う。娘の名はお柳。やがて二人は夫婦と
なる。二人の間には男の子が生まれ、緑丸(みどりまる)と名付けられる。平太郎は、美しい妻と愛らし
い子、そして老母との4人で、貧しいけれども、幸せな日々を送った。
それから何年かのちのこと。後白河法皇の発願で京に三十三間堂を建てることになり、その棟木に楊
枝の里の柳の巨樹が使われることになった。
柳の木が伐られる当日の早朝、夜が白みはじめたころ、まだ平太郎も老母も緑丸も眠っており、起き
ているのはお柳だけであった。お柳は、突然の激痛に呻いた。お柳は、平太郎に命を救われたその柳
の巨樹の精であったのだ。
お柳は、我が身に打ち込まれる斧の激痛に呻き、よろめきながら、眠っている平太郎や緑丸らに我が
身の上を語り、別れを告げた。
夢うつつにお柳の末期の声を聞いた平太郎と老母は、すぐに目覚め、お柳のあとを追おうとしたが、
路上には柳の葉が舞い散っているばかりである。緑丸は母の姿を求めて泣く。柳の巨樹は伐り倒され
てしまった。
柳の木は新宮の浜まで運ばれることになった。ところが、平太郎の家の前まで来たとき、動きが止ま
ってしまう。大勢の人がどんなに力一杯、押しても引いても、柳 の木は全く動かない。
そのとき、緑丸を連れた平太郎がやってきて、お柳の次第を役人に打ち明ける。この柳の木が自分の
妻で、緑丸の母親であること、母子の情断ち切り難く、別れを惜しんでいること。
平太郎は、緑丸に音度を取らせて、自分達に木を引かせてもらえるように申し出た。緑丸を柳の木にま
たがせ、音頭を取らせて引くと、今までビクともしなかった柳の木は緑丸を乗せて滑るように進んだ。こ
うして、平太郎・緑丸の親子の手により、柳の木は無事に運ばれ、三十三間堂も立派に完成したので
あった。
 
1001体の千手観音像が祀られている蓮華王院三十三間堂東面して、南北にのびるお堂内陣の
柱間が33もあるという建築的な特徴によります。「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十
三身にもとづく数を表しています。
平安時代から鎌倉時代にかけて、湛慶以下多くの仏師によって作られた。中央坐像の左右両翼の
十級の階段上に各五十体ずつ、合計千体が並んでいる。像高は1.65m前後、頭上に十一面と四
十二の手を持つ。
千体千手観音像の手前に横一列に立つ二十八部衆の中に、鎌倉復興期の作とされる国宝の風神像・
雷神像も、堂内の左右の端に安置されている。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユ
ーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達や緒形光琳『風神雷神図屏風』のモデルになって親しま
れている。
大部分は鎌倉復興期の作だが、建長元年(1249)の火災の際、救い出された平安期の像も124体含れ
る。また、この他に室町時代に追加された像が1体だけあるという。
平安時代の像は作者不明だが、鎌倉復興像は200数10体に作者銘があり、湛慶を初めとする当時の主
要な仏師たちが総出で造像に当ったことがわかる。
 
「33」は観音に縁のある数字で、花山天皇が出家のち熊野那智山から西国三十三の観音霊場観音霊場
『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。

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