(133話)

石峰寺

ところ             伏見区深草石峰寺山町26

宝永年間黄檗6世千呆禅師の創建。寛政年間に画家伊藤若冲が当時に草庵を結び安永より天明初
年まで前後10年余をかけて裏山に五百羅漢を作った。若冲の五百羅漢は磊落な筆法にて下絵を描
き石上に彫らせたもので釈迦誕生より涅槃に至るまでを中心に釈迦の一代記を描いたもので、長年
の風雨を得て丸み、苔寂び、その風化を伴い表情や姿態に一段と趣を深めている。尚、羅漢山の西
に若冲の墓と書画に秀でた貫名海屋の筆塚がある。
若冲は、全く学問に興味がなく、歌舞音曲にも興味がなく、遊び女性にも興味をもっていないし商売も
やる気がない人物であると書かれているらしい。
初めは春教(しゅんきょう)、のちは斗米庵(とべいあん)、米斗翁(とべいおう)名乗り画の代償に米一
斗を頂いた同時代に円山応挙は豪商三井家が応挙の主要なパトロンであったしかし画は若冲に現在
存在感を与えている様に感じる
京・錦小路にあった使用人2千人規模の青物問屋「枡屋」の主人として17年間を過ごしたあと、家督を
弟に譲り40歳以降、画道三昧に過ごしで、中国の院体花鳥画を手本にして、緊張感の高い独自の花
鳥画を完成した若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常から与えられた居士号であり
老子45章の「大盈若沖(冲は沖の俗字)」から採られた。
中国の院体花鳥画を手本にして、緊張感の高い独自の花鳥画を完成した人で、戦後、とみに評価を
高めている画家である。「動植綵絵」(宮内庁・御物)三十幅のような幻想的な傑作や野菜を釈迦や羅
漢に見立てた「果蔬涅槃図」などの宗教画がある。
若沖は妹と二人、石峰寺の古庵に住み、生涯独身で過ごし、寛政十二年(1800)、85歳で没した。
墓は賽の河原の石仏群を下った石峰寺墓地にある。
相国寺のお墓は若冲が生前に建てられた生前墓で、石峰寺の墓は若冲が亡くなった時に遺体を葬っ
た墓
 
相国寺は開基(創立者)は足利義満、開山は夢窓疎石である観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)
慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である、明治維新の廃仏毀釈で相国
寺は危機に陥った其の時若沖の画を宮内庁に買取を願い危機を免れた・・・・・・・・・・・毎朝の経文で
感謝を唱えている

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