(132話)

おさん・茂兵衛

ところ         下京区烏丸通四条下ル

江戸時代中期の天和年間(1681〜1684)に、実際にあった事件です。暦商を営む浜岡権之助(のち
意俊)の女房おさん(当時19才)と手代の茂兵衛が下女おたまの手引きによって密会を重ね、のち、
駆け落ちし、3人は丹波国柏原挙田(アグタ)に隠れ住んだものの、天和3年(1683)8月9日、幕吏手
下の者に見つけ出され捕縛連行されました。江戸時代の当時、不義密通は御法度、奉行所におい
て詮議の末、獄に繋がれ、同年9月22日、市中引き回しの上、九条山西麓の粟田口処刑場において、
おさんと茂兵衛は磔、お玉は獄門に処せられました。『諸式留帳』に「天和三年十一月 からす丸四
条下る大きやうし(大経師)さん 茂兵衛 下女 右三人 町中御引渡し 粟田口にて 磔−おさん
茂兵衛 獄門−下女おたま」とあり、洛中引き廻しの上に処刑磔(はりつけ)ののち、5日間、ここで
晒されています。
そのときおさんが着ていた着物は黒色の憲法染めに「蘆に鷺」の柄であったと云われている。
のちになって粟田口刑場跡からさんと茂兵衛の墓が発見され、山科区大塚西浦町の宝迎寺の墓地に
移された。左京区仁王門通東大路西入ル北門前町469 の日蓮宗の寂光寺(もと中京区寺町通二条
にも供養塔があり、伏見区深草宝塔寺山町にある日蓮宗の宝塔寺には「さん・茂兵衛の比翼塚」と伝
える供養塔があります。
 
この事件に着目した浮世草子の作者の井原西鶴が貞享3年(1686)2月に『好色五人女』巻三「中段
に見る暦屋物語」を刊行し、人形浄瑠璃・歌舞伎作者の近松門左衛門が63才の時に『大経師昔暦』を
書き正徳5年(1715)春に上演、おさん・茂兵衛の名は一躍世間に知られるようになりました。
溝口健二監督の映画『近松物語』(1954)カンヌ国際映画祭受賞もある
 
※大経師−経巻や書画類を表装・表具を職とする元締めで、のち暦を扱い『大経師暦』を刊行し富を
朝廷から暦の発行を任され独占的な利益を得ていた。物語の大経師の以春は商才にも優れ、金貸
しの他に京都近隣に広大な田畠も所持して巨万の富を築いていた。
大経師家が断絶をしたのは貞享元年(1684)12月で、断絶の理由としては、姦通事件は副次的なもの
で、主として「当該役所の京都所司代を差し越えて、江戸奉行所へ暦板行の独占権を願い出、京都所
司代稲葉丹後守の怒りを買ったこと」によるものらしい。
 
※隠れ住んだ丹波国柏原挙田は、現在の兵庫県丹波市柏原町挙田という所で、この地の伝承では、
茂兵衛の実家がこの近くの山田村(現在の春日町・春日局出生地)にあり、 2人は追手に気づき、旧
但馬街道沿い付近の森に逃げ込み、桜の木の陰に身を潜めていたところ、さんが咳をしたため追手
に見つけられ、捕られたといわれます。のちここに祠が建ち、「咳神さん」と呼ばれ、肺の病に効験が
あるとの信仰が生まれた。
 
※粟田口は京都と東海道を結ぶ重要街道として利用されていた平安時代から存在した粟田口刑場
過っては義経に水溜まりの水を蹴りかけてしまった。それを咎めた義経と争いになり、義経は与市と
従者を斬り殺してしまう九体町は、斬り殺された与市ら9人の菩提を弔うために村人が石仏を9体安
置したのが地名の由来。明智光秀の首 近藤勇の首等歴史に由来した話しが出る。
 
日ノ岡宝塔様縁起
桓武天皇奈良より京都へ遷都以来明治に亘る千有余年の間極刑場(粟田口処刑)が現在の九条山
附近にありました。
この刑場で処刑されてはかなく消えた罪人の数は約一万五千人余にのぼったといわれ千人に一基ず
つの供養塔が十五基各仏教諸宗の手で建てられたと伝えられていますこの碑はその一で,粟田口の
刑場に立てたものであるがのち遺棄され,昭和8(1933)年の国道改修工事の際に折れた上半部のみ
が出土し現在地に据え置かれた。昭和40(1965)年に下半部を補い復元されている。
日本ではじめての人体の医学解剖は、宝暦4年(1754)京都の江戸幕府の監督所でもあった京都所司
代の許可を得て、山脇東洋により、三条新地牢屋敷(通称 六角獄舎)日本の近代医学の発祥である、
解剖学書がある『蔵志』江戸の杉田玄白らが、死体解剖を初めて見学したのに、先立つこと17年前で
した。・・・・明治12年、公開処刑と梟首は廃された。
京の刑場
夏には納涼の床でにぎわう三条から五条鴨川その上流の下賀茂神社の神域に達すると、身を清める
みそぎに供されて居たが平安時代死刑の判決が出ても、天皇の勅により、流刑に軽減されるのが慣
例に成っていた,死罪は薬子の変以来346年間行われていなかったが・・・
六条河原にさらされた歴史上の人物は保元平治の乱の敗者、藤原信頼、平忠正(1159年)1183年
木曽義仲が後白河法皇の側近百余名の首をさらすと、翌年、今度はその義仲の首がさらされた、安土
・桃山時代以後のことだった。1594年には、大泥棒・石川五右衛門が、郎党10人ほどと油による釜
ゆでの刑に処されている。
1600年には関ヶ原の戦いで敗れた石田三成、小西行長、安国寺恵瓊(えけい)らの首がさらされた。
だが、そのころを最後に、処刑は見せしめ為三条河原へと移っていった。
秀次の一族39人の首が切られたのは、今からわずか410年ほど前鴨川(加茂川)真赤に染まった1
595年のこと。周囲を猥雑な飲食店街に囲まれた寺の境内には、秀次を囲むようにして、39人の墓
石が整然と並んでいる。
6歳、9歳、17歳・・・・・石に刻まれた享年が、あまりに傷ましい。首を切断された39体は、三条河原に
掘られた穴にゴミのように投げ込まれ、その上に塚が築かれた。当時、京と東国を結ぶ最大の街道が
通った三条大橋を行き交う都人への、見せしめのためだった。やがて高瀬川を開削した角倉了意に
よって、今の瑞泉寺に移される。

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