(131話)

禁門の変(蛤御門の変)U

ところ    中京区烏丸通丸太町上ル

前年8月18日の政変で京都政界を追放された長州藩は京都での地位を失墜し。その後,長州藩は
藩主父子の名誉の回復と京都から追放された尊王攘夷派公家7名の赦免を願いましたが許されず
さらに翌年6月5日には、池田屋事件で藩士多数が殺された、このような状況下に成り勢力回復をね
らい三家老(福原越後・国司信濃・益田右衛門介)が兵を率いて上洛総力3000人。
元治元年(1864年)7月19日京都で勢力の挽回を図る長州藩と、御所を守る幕府軍の間で激しい
戦いが繰り広げられた。長州藩であったが、ついに武力行使に至ったのである。兵力では圧倒的に
劣っていた長州軍であったが、尊攘派浪士の猛攻は凄まじいものであった。しかし、薩摩藩・会津藩
を主力とする大軍の幕府軍には力及ばず、長州藩は敗走した。
この戦いは禁門の変と呼ばれているが、中でも激戦区だったのは西側の蛤御門(はまぐりごもん)で
あったため、蛤御門の変とも呼ばれている。
5日後に孝明天皇は長州追討令を出した。これを受け、幕府は長州征討軍を派遣・第一次長州征討
を行なうこの時、長州兵が御所に向かって発砲したことから、長州藩は明治維新まで、朝敵(天皇の
敵)とされた。
 
 
幕末の蛤御門地図・・・・幕末当時は100メートルほど東に入ったところで当時の門は
北向きにあった事が判る
進軍する長州兵と避難する京都の市民「甲子兵燹図」より・・・旗印は何処の!!
蛤御門の変(禁門の変)1864年8月20日(元治元年7月19日)長州藩と幕府軍の激戦であった被害の範
囲を描いたかわら版が多く残され又各自が墨や朱色で記載している。
蛤御門附近の戦闘を描いたかわら版紙面から戦闘による火災であることが分かる図↑↓
元治元年子七月十九日辰刻頃  河原町二条より出火仕少し鎮方相成 候所已刻よ
り堺町丸太町辺より又候  出火仕候折節北東風つよく相成  丸太町通を寺町へ
焼出革堂  残る夷川を河原町にて火留る西ハ  烏丸通を上長者町又下立売は  
新町椹木町西洞院丸太町  東ほり川下ハ野原まて焼ぬけ 西堀川通別条なし並本
国寺又  西本願寺御堂別条なし東本願寺  ハミなミな焼失不動堂にて火留る  又
東は加茂川通り突抜寺町木や  町等ハことことく焼失併祇園  御旅道場ハ別条な 
く東辺も同断依て東ハ河原町   上ハ下立売下ハ九条  西ハ堀川まて焼失仕候  
凡家数  二万五千計  かまと数  四万七千計  土蔵落  千五百ケ所  神社
仏閣  五百ケ所
攘夷派の公家たちは排除され長州藩兵に守られの三条実美ら七卿落ちの図
長州藩士と長州派公卿7人は雨の降る夜8月18日、御所を追われ長州へと落ち延びま
すこれが「八・一八の政変」といわれるものです。その七人とは三条実美、三条西季知、
東四条隆謌、壬久世通禧、生基修、錦小路頼徳、沢宣嘉のことである
元治元年(1864年)7月19日京都大火之略図
その被害は、町数118、家屋42000、土蔵1500、寺社塔頭480、武家屋敷600に及んだ
 
                            長州軍の刀痕
蛤御門の変(元治元年7月19日)の直前まで、長州軍約500人(家老国司信濃、来島又兵衛)が屯営
した嵯峨天龍寺に陣を敷き、血気にはやる兵士が柱に試し切りした跡がこの傷で多くの刀痕が残さ
れた。商家(山中油店)にも刀痕「逃亡する長州兵の刀傷」「暴挙」を残した。
@長州藩家老、福原越後が伏見方面から御所
A家老益田右衛門介、真木和泉守、久坂玄瑞が、南西の大山崎から堺町御門
B西の嵯峨方面からは、家老国司信濃、来島又兵衛が蛤御門と中立売り御へ・・・長州軍兵力は、
総力3000人
戦死者
[長州軍]・・・265名
[幕府軍]会津藩・60名越前藩・15名彦根藩・9名薩摩藩・8名桑名藩・・3名淀藩・・2名合計・・97名
 
中岡慎太郎(土佐藩士)参戦の動き
以外にも慎太郎は来島又兵衛の隊で主に中立売門あたりで戦ったようです?この戦いで慎太郎はふ
くらはぎに銃弾を受け負傷します。戦線から離脱し、幕府軍(敵軍)の中に紛れ込み、「戦を見物に来
ていて脚に傷を受けた」と偽って薩摩藩の支藩である佐土原藩の鳥居大炊左衛門を訪ねます。
そこで療養をさせてもらうことになります。前田年雄氏によれば、この時慎太郎が「薩摩の西郷は長州
がにくくてこの戦をしているのだろうか。」と聞いたところ、「西郷は朝廷を守るためにこの戦をしている。
長州がにくくてではない。」との返答があったといいます。また前田氏は「慎太郎はこの時薩長同盟の
可能なことを感じとりました。」と書いています。この禁門の変で戦った経験が慎太郎の考えを変えてい
くことにつながいったといえます。
 
「禁門(蛤御門)の変」駒札の説明文を修正に「御所の護衛に当たっていた会津・薩摩藩との間で激戦
が行われました」と書かれていたが長州藩と交戦したのは会津、桑名両藩で、薩摩藩は別の門(乾門)
からの応援部隊だった。
当時の桑名藩主・松平定敬は京都守護職だった松平容保の弟で、中心で幕府を支えた。会津ほどで
はないが、桑名は明治維新以降、賊軍という悲しい扱いを受けている。そういう歴史があったことを知っ
てもらいたい」と“復権”に期待を寄せた「三重県桑名市」
 
余談
薩摩藩は、長州軍を駐留させたとの理由で天龍寺に砲火を浴びせようとするが管長滴水禅師は、
総門前の大砲に立ちはだかり、「全山を焼くならまず自分を打ち殺してからにせよ」と言うが・・・・・・
薩摩は、「それでは大義名分が立たない。ただ空砲のみを撃てばよい」と名分をつけるが、実際は、
実弾を放ち全山ことごとく焼亡する。禅師は開山の木像を背負い付近の竹藪に難を避けた薩摩の砲
火で天龍寺八度目の焼亡。「元天龍寺管長関牧翁著」

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