(129話)

大黒寺

ところ             伏見区鷹匠町4

島津義弘(1615年)が守本尊「出生大黒天」と同じ大黒天がこの寺にある事を知り、薩摩藩の祈祷所とし
ました。寺では、大黒天を本尊とし、寺名を大黒寺と改め。このことから、通称「薩摩寺」とも呼ばれるように
なり、この縁から寺田屋騒動の有馬新七以下の九烈士は墓、伏見の民の為に権力と戦った文殊九助ら7
名の伏見義民の遺髪塔・整然と墓石が配されている中でも当時の幕府(政府)屈服する事無く物事を成し
遂げた隼人の宝暦治水(1753年)の薩摩藩家老平田靱負(ゆきえ)の墓がある。・・・・・・・
義を重んじた寺である
幕末に西郷隆盛や大久保利通などが国事を論じたという一室があるり近くに薩摩藩邸時代をさ気取った
(戊辰戦争)地。
宝暦治水
関ヶ原合戦時の藩主島津義弘は敗戦者であるが、敵中から家康の本陣を突破し近江から伊賀、奈良をへ
て堺から船で薩摩に帰った。。。。恐るべし薩摩藩(島津)徳川に有ったのか??
1753年(宝暦3年)、徳川幕府は琉球貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて木曽三川の分流工事
を薩摩藩に命じ露骨な弾圧政策に薩摩藩は徳川幕府への反発を極め徳川家と一戦交えようという過激な
意見まで噴出したが、平田が説破して工事を引き受けることとなり、平田は総奉行となる。
総勢947名で40万両(300億円以上)にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね工事に派
遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続
出した。
この件に関して、平田は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理している。
幕府に対する反発による割腹者並びに不衛生な現場での重労働による病死者は現在分かっている範囲で
は94名【切腹61名・病死32名・人柱1名】である。当時幕府は寺が薩摩藩の死者を葬ることを禁じていた、
分流工事は着工より1年3ヶ月ほどでようやく完成したが、平田は藩への多大な負担の責任を取って切腹。
享年50。遺体は伏見の大黒寺に葬られ、遺髪は鹿児島城下の妙国寺に埋められる。
 
                    辞世の句
       住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ  美濃の大牧
 
鹿児島では「平田靱負」は小学校の道徳の副読本に掲載され多くの県民に知られている、鹿児島県と岐阜
県の姉妹県盟約、鹿児島市と大垣市の姉妹都市盟約は、この平田靱負の治水工事に端を発している。

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