(127話)

醍醐寺の藤戸石

ところ          伏見区醍醐東大路町22

醍醐寺の三宝院庭園にある藤戸石は、源平藤戸合戦(1184年)に題材をとった能「藤戸」に由来す
る名石である。
高さ1.8メートル、幅1.1メートル。両脇に小さな石を置き、阿弥陀三尊を表している。豊臣秀吉が
関白公邸だった聚楽第(じゅらくだい)から、「醍醐の花見」で整備した三宝院庭園に運ばせた。 
 
源平の合戦のさなか。備前国藤戸・岡山県(現在の児島半島)に陣を張る平氏の軍勢を、源範頼勢
が攻め寄せた。波が高くて渡れず困惑していると、御家人の一人佐々木盛綱が手勢を率い、馬に乗
ったまま浅瀬を渡った。それに続いた源氏勢は一気に平氏を追い落とした。
盛綱は浅瀬の場所を地元の漁夫から聞き出した。情報が漏れるのを恐れた盛綱は、その場で漁夫
を切り殺した。平家物語が伝えるこの話を題材にした謡曲「藤戸」は、漁夫の母親に非道を責められ
た盛綱が漁夫の魂を弔い、漁夫の亡霊が現れ、恨み言を繰り返しつつ成仏する。
戦乱の時代、武士の犠牲にされた庶民の悲しみを伝える話だが、武家社会ではなぜか、一番乗りを
果たした盛綱の栄光を伝える話となる。漁夫の殺害現場にあったとされる悲劇の石。だが、源氏を
勝利に導いた象徴だからだろうか。藤戸石は武将達とつては「天下の名石」として語り継がれる。
その石は、室町後期に実権を握っていた細川管領邸に現れ、京に上ったばかりの織田信長が奪う。
将軍、足利義昭のために造営中だった二条邸まで運んだ。しかもこの時、石を美しい布に包んで笛
や太鼓ではやし、派手なパレードを繰り広げたと文献に記されている。
次なる天下人、豊臣秀吉は、その石を聚楽第の庭に移した。一五九八(慶長三)年、醍醐の花見を
催した秀吉は、造営中だった醍醐寺三宝院庭園の主人石とした。現在、表書院から眺める庭園の正
面で、ひときわ存在感をアピールしている石が、その藤戸石だ。天下人の自負を体現したような堂々
たる石だ。
藤戸石は、同町で海中に浮き沈みしていた浮洲(うきす)岩を運んだものといわれ、採取跡地には
碑が残っていが。真実は謎に包まれている。「藤戸石は変輝緑岩だが、跡地の地質は花崗岩(かこ
うがん)類と流紋岩。ここで採れたと考えるのは難しい」という。「変輝緑岩を含む結晶片岩類(青石)
は、室町後期から江戸初期にかけて、名石として大変人気があった。信長や秀吉が好んで用いたの
は、こうした理由もあるだろうか!!
どこから来たのか。反権力の象徴か、武運を招く石か戦乱の犠牲になった人々への鎮魂が込められ
ている。今は桜の名所に落ち着いた藤戸石は、何も語らない。

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