(123話)

智積院

ところ        東山区東大路通七条

真言宗智山派 総本山智積院と云えば、長谷川等伯で有名である、数々の伽藍と多くの貴重な文化遺
産があり。特に豊臣秀吉が幼くして亡くなった愛児・鶴松の追善のために建立した祥雲寺の金碧障壁画
長谷川等伯(1539-1610)とその弟子達によって描かれた「楓図」「松に立葵図」や等伯の長男・久蔵の
作とされる「桜図」は、桃山時代を代表する障壁画である
大書院はこの庭園に面して建ち、平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入
り込んでいますその大書院より眺めることができる庭園は、四季折々の美しさで私たちの目と心を
楽しませてくれますが、特に、ツツジの花の咲く5月下旬から6月下旬にかけて一段と華やぎ、毎年
多くの観光客が訪れます。「利休好みの庭」と伝えられるこの庭園は、豊臣秀吉公が建立した祥雲禅
寺(しょううんぜんじ・智積院の前身のお寺)時代に原形が造られ。その後、智積院になってからは、第
七世運敞(うんしょう)僧正が修復し、東山随一の庭と言われるようになった。
築山・泉水庭の先駆をなした貴重な遺産といわれ、中国の盧山を象って土地の高低を利用して築山を
造り、その前面に池を掘るとともに、山の中腹や山裾に石組みを配して変化を付けています
 
長谷川等伯
天文8年(1539-1610)、能登国七尾(現・石川県七尾市)に生まれる。 はじめ長谷川信春を名乗り仏画
などを描いていたが、のち30歳を過ぎて上洛。当時の主流であった狩野派に対して強烈なライバル意
識を持ち、独自の画風を確立。日蓮宗の熱心な信者であり、また千利休とも親交を持っていた。天正
18文禄3年(1593年)、画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた長男・久蔵に先立たれ(長谷川派の勢力伸
長を恐れた、狩野派による「暗殺」とも言われている)、晩年には事故により利き腕である右手の自由を
失うなど私生活は不幸であった。後に徳川家康の要請により江戸に下向するが、江戸到着後2日目に
して病死した等伯の没した翌年、次男宗宅も亡くなり、画壇のなかでの長谷川一門の命脈は尽きてし
まいました。不運な生涯だった。・・・・・・

東山随一の庭

当時の再現画↑↓

 

[楓図]

[松に立葵図]

長男・久蔵の作とされる [桜図]

 

桃山美術の二人の画聖

等伯『楓図』(1593)54才作・千利休や跡継久蔵を亡くした・智積院

狩野永徳『檜図屏風』(1590)最晩年作・東京国立博物館

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