(114話)

高台寺

ところ            東山区下河原通八坂鳥居前下る下河原町

豊臣秀吉の正室、北政所(ねね)がに秀吉の菩提を弔うために開いた寺高台寺東山を借景にした
小堀遠州作の庭園(名勝・史跡)も見応えがある。・・・・・・開創1606年(慶長11)から400年を迎え
た、創建当時は徳川氏の財政的支援があったり、伏見城の一部を移築するなどして壮観だったそ
うだが、江戸期以降の度重なる火災によってほとんどの建物が焼失当時の面影を再現出来る、開
山堂、傘亭、霊屋、時雨亭、表門などが残っている。調度品の蒔絵は高台寺蒔絵と呼ばれ、桃山
時代の漆工芸として代表的な品である。
北政所(ねね)は、同郷尾張の足軽の娘だった。百姓の息子で、ねねを娶った時秀吉(25才)は
足軽組頭に出世していた、境遇も似た物同士ねねは14才で2人は好き合って一緒になったむしろ
下級武士のみ特権であつた、ねねはおおらかな性格でよく秀吉に尽くした、2人の中は良かったが
子供が出来なかったのが。
当時の風習では、正室に子が出来なければ、側室を迎えて子供をもうけるのが習わしであった、
側室・13名主だった・松の丸殿(京極高吉の娘・竜子)加賀殿(前田利家娘・摩阿) 三の丸殿
(蒲生氏郷の養女、織田信長の娘) 姫路殿(織田信包の娘)側室:淀殿(浅井長政の娘・茶々)・・・
・・・・・・いづれも政略がからんだものだった、ねねも夫の為に耐えなくてはいけなかった・・・・・・・・・
が 、今だに跡取りも無く突然茶々に鶴松・秀頼を産んだ常に平静で居られないのが人間・・・・
茶々に対して偽悪・嫉妬心も隠し取乱す事もも無く過した秀吉が亡くなると北政所(ねね)は大阪城
出ていき尼になった。
関が原の合戦では、すべてを知りつくした”ねね”は家康側についた淀殿と石田三成に反感を持っ
ていた秀吉子飼いの武将は”ねね”に従った。
関が原の合戦はねねと淀殿の最後の対決となった、結果は淀殿が秀頼とともに自刀して”ねね”の
勝利を告げた。
徳川家光が三代将軍に成った翌年に北政所が76歳で没されるまで住み北政所終焉の地となった
高台寺、清水寺から祇園円山公園まで歴史と文化の道を南北に石畳で結ぶ「ねねの道」が親しま
れている。
 
昭和55年(1980年)、大坂城三ノ丸跡地より秀頼とみられる遺骨が発掘され、京都の清凉寺(嵯峨
釈迦堂)に埋葬された。秀頼の首に、あと秀吉の骨の一部でもあればDNA鑑定が???

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