(112話)

西本願寺・飛雲閣

西本願寺の南通中央に無料で近づいて見られる桃山時代の装飾彫刻が国宝即ち世界遺産がある。
本願寺の南にある唐門は、入母屋造りの前後に大唐破風を配した黒漆塗に彩色彫刻を施した豪華な
四脚門で、日暮門とも呼ばれて。正面梁の間に麒麟と雲文、扉には牡丹に唐獅子の透かし彫りを入
れ、両袖壁には中国の古伝説上の隠士の典型である許由(西側)と巣父(東側)の故事を彫刻して
随所にほどこされた彫刻は極彩色に彩られ、彫が深く厚みがあり、精緻な飾金物とともに黒漆塗の
柱や梁に映えて工芸品のような美しさを醸し出しています気に入れば時間無制限で観察できます。
 
お金を払うと云っても見学出来ないのは飛雲閣、京都の三閣」と称えられる飛雲閣(国宝、重文指
定)がある、あとの「二閣」は金閣、銀閣だから、格も由緒も、建物や庭園の美しさも、並みのも
のではない。西本願寺の東南に建つ。秀吉の聚楽第からの移築とも言われている飛雲閣の出入りは
舟で行うのが正式で、境内の東南隅にある滴翠園の池に建つ三層柿葺きの楼閣建築です。初層は唐
破風と入母屋を左右に、二層は寄棟造りを中心に千鳥破風を配し、三層は宝形造りと実に変化に富
んだ屋根を持ち、左右非対称ながら巧みな調和を持つ名建築として知られています。
西にのびる渡り廊下で結ばれている黄鶴台は、柿茸寄棟造りの床の高い建物で確か床は鴬張りで隠
し廊下や部屋があつた様に記憶している、黄鶴台を降りれば別棟の浴室があり、西南隅に唐破風を
もつ蒸風呂と鉄釜などがあります。蒸風呂は、上の窓や板戸の開閉により温度を調節するようにな
っています年に一度公開があります。
 
新選組は、池田屋騒動(1864年)以降隊士が増え、壬生の屯所では狭くなった事もあり、翌年屯所を
壬生から西本願寺に移し、境内に新選組本陣の看板を揚げ北東にあった北集会所(現在の参拝会
館)と太鼓楼を使用。
本願寺は、長州との深い縁もあり、幕末の尊皇攘夷運動のなかで幕府と対立していた長州藩士達が
何かにつけて本願寺を頼りにしていたため、新選組は本願寺の中に本拠を移すことによって一石二
鳥の効果をねらった。
新選組は、境内で大砲の空砲を轟かせたり、実弾射撃をおこなったり、乱暴を繰り返したため参拝
の門信徒や僧侶らを震撼させる日々が続いた、何だかの圧力で南約1キロの地(不動堂村)に最後
の屯所を置く、坂本竜馬暗殺の3日後に”油小路の変”近藤は同志の離脱に困り果て参謀伊東(北辰
一刀流)を自分の妾宅に呼び出して酔わせ暗殺他に同志3名死・・・・・・旧来より時を報せたり、法要
の合図として打たれていた太鼓を備える重層の楼閣建築である。
結成時からの元隊士(島田魁)が明治維新後、本願寺の守衛を勤め、終生同士の供養のお念仏を喜
びなが番ら太鼓をしたという話が伝わっております明治33年3月20日73歳で死。
「島田魁日記」新選組研究資料を残した、京都では長州よりも新選組の方が人気が有る何故かと言えば
長州は”蛤御門の変”で京都大火被害は、町数118、家屋42000、土蔵1500、寺社塔頭480、武家屋敷
600に及んだ。

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