(111話)

落柿舎

ところ        右京区嵯峨小倉山緋明神町20

落柿舎(らくししゃ)は元禄の俳人向井去来(きょらい)の遺跡である。去来は芭蕉の門人、庭の柿
を売る契約をしたのちに、柿がすべて台風で落ちてしまったためこう呼ばれている。
芭蕉の門人で蕉門十哲の一人、向井去来(江戸時代前期に活躍した俳人)の草庵で、現在の庵は
京都の俳人、井上重厚が再建した。 芭蕉は金福寺にも好く滞在した元禄四年(1691) 師匠でもあ
る松尾芭蕉もこの落柿舎を訪れていたようで、
            五月雨や色紙へぎたる壁の跡
の句を残し、また嵯峨日記を記したのもこの落柿舎だと云います。
元禄七年(1694) 大阪十月十二日午後、病死。享年五十一歳。十四日、大津・膳所の義仲寺境にて
埋葬 された、葬儀に参列した門人は80名、会葬者は300余名にのぼった。
             旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
 
芭蕉は源義経や義仲、斎藤別当実盛といった悲劇伝を残した武人や藤原実方などにとりわけ思いを
寄せ、「おくのほそ道」の旅中、これらの人物にゆかりのある土地を訪れて句を残している、又西行法
師と同じ道を旅をしている、西行はかつては北面の武士と云われ合い通じる物が合ったのか?
義仲については寿永2年(1183年)4月に平家軍との戦いで戦場と化した北陸・燧(ひうち)が城を眺め、
次の句を詠んでいる
            義仲の寝覚めの山か月悲し
都からみちのくへ左遷させられた歌人藤原実方の終焉の地・笠島では
             笠島はいづこ五月のぬかり道
義経が自害した土地を訪れて
              夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡
越前を訪れて実盛の甲(かぶと)を見て
              むざんやな 甲の下の きりぎりす
白髪を染め、一人踏みとどまった最期の戦いの敵将が、3歳のときに命を救って貰った木曾義仲
の恩人であった家臣に義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、
ついにその死が確認された時、かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人
目もはばからず涙にむせんだという。
 
芭蕉忍者(隠密)説…伊賀の里の出身者であり、歩く速度が異様に速く、5ヶ月間の旅の旅費は?
各地で句会に出席して歩く旅は忍者の格好の隠れ蓑であり訪れる土地は外様大名の領地が多かっ
たと指摘されている『おくのほそ道』の内容に不自然な点があることから、伊達氏の仙台藩の動向を
調べる任務を負っていたのではと一部で指摘されている。出発前は「松島の月が楽しみ」と言ってい
るのに、いざ松島に着くと一句も詠まずに一泊で素通りし、なぜか須賀川では7泊、黒羽では13泊
もしている。そもそも江戸を出る時から、同行人の曾良の日記「3月20日出発」と、芭蕉の「27日
出発」でズレている。こうした両者の記録違いは約80ヶ所もあるという。芭蕉の任務が諸藩の情報
収集であれば長旅の連続も理解できる。だがこれらは取るに足らないことだ!!!・・・

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