(105話)


報恩寺

ところ          上京区小川通寺之内下ル射場町579       

鎌倉期も終わりのころ、壬生寺の近くに松並千歳という白拍子が一人の娘と住んでいた。娘は照子
報恩寺には悲しい伝説が残る梵鐘がある。撞(つ)かずの鐘
この鐘は朝夕に撞かれ、一帯の織屋ではこの音で仕事を始め、そして終わっていた。
ある織屋の仲の悪い丁稚と織女が夕の鐘の数を言い争った。
本当は織女の9つが正解だったが、姑息な丁稚は寺男に頼み、自分が主張した8つの鐘をつかせた
ため、織女は負けてしまった。
本来鐘は108煩悩を除滅するために撞くので、108の1/12である9が正しいのだ、織女は悲しさ
と悔しさで鐘楼で首つり自殺をしてしまった。
それ以来この鐘をつくと不吉なことが起こるため、供養をし、朝夕撞くのをやめ、除夜と大法要のみ
に撞くことになった。
尚、この報恩寺の梵鐘は、平安時代鋳造の名鐘として重要文化財に指定されている。
 
豊臣秀吉が寺宝の虎の図を聚楽第に持ち帰ったが、夜毎吠えて眠れず、寺に返したという。
「鳴虎図」に四明陶いつの署名があり、宋か明の時代に中国で描かれたと推定される。この絵は寅
年の正月三が日に限り公開されます。
門前の石橋は秀吉の侍尼・仁舜尼の寄進で、擬宝珠に慶長七年の銘がある。重文の梵鐘は平安
時代末期の作で撞かずの鐘という。客殿に黒田長政が死去した部屋もある。観世流家元歴代や、
志野流香道家元蜂谷家歴代の菩提寺で、仁舜尼や福山藩祖の阿部正勝等の墓碑を併祠している。
建立:室町時代
前身は定かではないが、室町時代中期までは八宗兼学の寺院として一条高倉付近にあったが、
後柏原天皇の勅旨で、1501年(文亀1)慶誉が再興、浄土宗寺院となる。天正年間(1573〜92)現在
地に移った。

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