(101話)

新熊野神社(イマクマノジンジャ)

ところ        東山区今熊野椥ノ森町42

後白河天皇は都合三十四回も熊野詣に出かけていたが新しく熊野神社を都に平清盛に命じて紀州
の熊野から土砂や材木をこの地に運び込み、新たな熊野との意味を込め・・・・新熊野神社
クスノキは840年前に、和歌山県の熊野から移植されたもので、後白河法皇が植えたものとされる
市街地では珍しい大きさで、天然記念物されている後白河法皇が最後の院政を行った保元の乱、
平治の乱という、鎌倉幕府がはじまる前の乱世の時代その後、南北朝時代の兵火に見舞われまし
たが、北朝の朝廷や足利将軍の配慮によってすぐに復興された。
清少納言(生没年未詳)は、その父清原元輔の邸宅が現在の境内地付近に有ったことから近くに
おいて生まれ育てられた。
小野篁と伝わる平安京三大葬送地「鳥辺野」「蓮台野」「化野」古くから高貴な方々の葬地であり鳥
戸野(山手)、いっぽうの鳥辺野は庶民の葬地でした(新熊野神社)。
 
「今熊野勧進猿楽」と呼ばれ、見物していた室町幕府の第3代将軍義満が、その至芸に感激、2人
を同朋衆に加え、父子をそれぞれ観阿弥、世阿弥と名乗らせた機縁の地であり能の発祥地。
時の将軍の援助をうけた世阿弥は、父の志をつぎ、後顧の憂いなく猿楽の芸術性を高めるため日
夜、研究努力を重ね、これを今日の能楽に大成させた 『風姿花傳』日本最古の演劇論とも言える
「初心忘るべからず」は教訓として馴染みが深い言葉である。
晩年思わぬ不幸が世阿弥を襲う。義持が没し足利義教の代になると弾圧が加えられるようになる跡
取りの長男・元雅の突然の死。そして、新将軍義教は世阿弥を疎み、ついに1434年5月佐渡流罪が
言い渡される。既に72歳を超えていた妻もつれず一人で世阿弥は京都を旅立ち、義教は赤松親子に
よって滅ぼされて世阿弥は八十一歳の天寿を全うしたともいわれ、その最期は定かではない。
 
この様な話もある。。。
三重県上野市(現・伊賀市)の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると、
伊賀、服部氏族(伊賀流忍者)の上嶋元成の三男が猿楽(能)者の観阿弥で、その母は楠木正成の
姉妹であるという。正成の甥が観阿弥ということになる足利義教はそれを知って元雅の突然の死
世阿弥を佐渡に島流しの定説もある・・・・世阿弥の墓は一休が住職をした京都大徳寺真珠庵に
ある。

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