湯かけ祭考 

由来

  川原湯温泉は、建久3年、源頼朝の浅間狩りの時に発見されたと伝えられています。毎年正月二十日に行われる湯かけ祭は、今から四百年ほど前のこと、温泉が突然止まり困り果てた村人たちが、ニワトリを生け贄にして祈ったところ、再び豊かな温泉がわき出したので「お湯わいた」「お祝いだ」とお湯をかけあったのが始まりだといわれています。
 昔は、誰彼かまわずお湯をかけ、湯かけ祭に出ない家にも片端から、お湯をかけました。見物人や通行人は、びしょ濡れになり、玄関は凍り付いて開かなくなりました。お湯をかけられると厄落としになると喜んだ人もいましたが、ケンカになったりトラブルになったこともしばしばありました。
 明治のはじめに「こんな野蛮な祭はやめよう」と中止したところ、疫病が流行り亡くなる人が多数出ました。湯かけ祭をやめたせいだということで、その後は途絶えることなく続いています。近年は、多くのお客様に見ていただけるように祭もあらためられ、皆様に楽しんで頂いております。
 

湯かけ祭次第
1月20日 午前5時より

呼び出し太鼓
集合
湯かけ太鼓
修祓の儀
献せんの儀
祝詞奏上
玉串奉奠
温泉くみ上げの儀
巫女による分湯の儀
温泉奉納の儀

湯かけ合戦

紅白くす玉割
にわとり奉納
終了の手締め




湯かけ音頭
豊田嘉雄 作詞

1,ヤアー 正月二十日にゃ どなたもおいで
サテ 上州川原湯 湯かけの祭 ソレ

メデタヤ メデタヤ オシャシャンのシャン
オヤ オシャシャンのシャン


2,ヤアー そろった そろったよ 裸で手桶
  サテ かけ声 勇んで湯煙立てて ソレ

 メデタヤ メデタヤ オシャシャンのシャン
オヤ オシャシャンのシャン

3,ヤアー 大寒  小寒  何でもないよ 
    サテ みんなで湯かけの音頭を唄や ソレ

メデタヤ メデタヤ オシャシャンのシャン
オヤ オシャシャンのシャン

4,ヤアー 川原湯 湯の神 にわとり奉り
       サテ かけろ かけろよ みんなでそろて ソレ

メデタヤ メデタヤ オシャシャンのシャン
オヤ オシャシャンのシャン

5,ヤアー 湯かけ祭の しぶきを浴びりゃ
   サテ 今年ゃ 災難 厄除けできて ソレ

メデタヤ メデタヤ オシャシャンのシャン
オヤ オシャシャンのシャン

  6,ヤアー 湯かけて 唄って 唄ってかけりゃ
  サテ やがて 明るい朝日が昇る ソレ

メデタヤ メデタヤ オシャシャンのシャン
オヤ オシャシャンのシャン


 湯かけ祭考

 口伝口承の祭には古い祭が多い。川原湯温泉の湯かけ祭も言い伝えだけでやってきた祭である。祭はやることに意味があり、なぜどうしては必要でない。ただ、湯かけ祭は川原湯温泉の歴史そのものであり、断片的に考えていたことをつなぎ合わせてみるのもおもしろいかもしれない。
 
野蛮な祭
 祭としてのウブな部分が見えなくなってきつつある現在、昔はどうだったのかを年寄りの人たちに聞いてみた。川原湯温泉の湯かけ祭は、毎年必ずやらなければならない祭だった。楽しいというより村中一軒残らず参加しなければならないという半強制的な祭で、出なければ家にお湯をかける。かけられても文句を言えない。文句を言っても、言う方が悪い。そういう人は村で相手にされなくなってしまう。そんな祭だった。
徹底的な厄払い
 1月20日は川原湯にとって冬から春に変わる分岐点である。20日を境に日照時間は30分延びて日差しはどんどん強くなる。陰から陽に変わる節目の祭である。年の始めの邪気のない若湯をかけ合うことで無病息災を願い、村から災いを徹底的に追い払うため道行く人にお湯をかけたり、出ない家にもお湯をかけたりするである。温泉は地球という火に温められた五行の火気、もうもうと湧く湯煙も火の煙にたとえられそうだ。火気の湯でもって金気のトリをやっつけ災いのないよい一年を引き寄せる祭。そのように解釈すると湯かけ祭が見えてくる。1月20日の20も意味がありそうな数字である。年の初めの2,7,14、21、28には大きな祭や行事がある。火気を強めるための数、7の倍数。6日が小寒で7日が七草。14日がどんどん焼きで15日が小正月。15才の元服。20日が大寒、20日正月で21日が初大師。28日は初不動。7がらみの数には呪術の薫りがする。
なぜトリなのか
 川原湯には鳥追い祭はない。一晩中太鼓を鳴らし、米を食い荒らすトリを追い払うという鳥追い祭と湯かけ祭は似ている。鳥追い祭では、トリは村から追い払われる存在。湯かけ祭のニワトリはいつでも乱暴に扱われ、由来では生け贄であるし、かつては、竹の先にニワトリを逆さに吊し、新婿がぶらさげて逃げ回りお湯をかけたりもしたという。本当に首を締めて奉納したこともあるらしい。トリ=厄を正月の始めに川原湯から徹底的に追い出す祭というわけだ。
湯の神はニワトリなのか
 湯かけ祭の由来では、温泉が、ゆで卵の匂いなので湯の神様はニワトリではないかと思いニワトリを生け贄にして祈ったところ……温泉が再び湧きだしたということになっている。湯の神のニワトリに湯の神のニワトリを生け贄にするというのはどこかへんである。湯かけ祭のニワトリの乱暴な扱いから考えても、やはり厄としてのニワトリと考えた方がいいのではないか。「川原湯 湯の神 ニワトリまつり」と湯かけ音頭で唄われているが「川原湯の湯の神にニワトリをたてまつり」と解釈する方がいいと思う。それでは川原湯温泉の本当の神様は何なのだという疑問がわいてくる。
蛇信仰
 祭の舞台が王湯に常設されるまでは石垣のところから蛇が時々顔を出していた。蛇は、変温動物なので、冬でも暖かい温泉のわき出し口周辺は絶好のすみかなのだろう。王湯の蛇は他のところの蛇と違っておとなしい。子供の頃は石垣を棒でつついて蛇を出して遊んだ。蛇の背中には銭形があるのでマムシだといっていたが、アオダイショウの子だったのだろう。蛇を見つけるとすぐ殺してしまう子供達も、王湯の蛇は殺さなかった。屋敷蛇と同じように考えていたからなのかもしれない。家の中にいる蛇は縁起が良いのでいじめたりしてはいけないものといわれていた。
 温泉と蛇はつきもので、神様としてまつっている温泉地も多い。川原湯にとっての1月20日は冬から春に変わる季節の節目である。季節の変わり目に再生復活のシンボルとしての蛇にニワトリを奉納してまつる。その方が自然だ。
祭と裸
 湯かけ祭は裸で湯をかけ合う祭である。裸は、冬眠し脱皮をする蛇の正に脱皮をした姿と重ね合わされる。神道における禊ぎ祓いは、身を削ぎ、削いだ皮膜を払い捨てる事であるという。裸になることは、祭にとって重要な行為である。蛇になぞらえて体についた厄を払い捨てて新たなみずみずしい体に再生するための裸である。
玉湯と笹湯
 笹湯は今は王湯から300mくらい下にあるが、かつては王湯の露天風呂のところにあった。王湯の露天風呂が出来る前は郵便局で、その地階の笹湯跡に床を張り卓球場が出来ていた。小学校の頃は帰ってくるとよくここで卓球をした。湯かけ祭はここの笹湯と王湯でかけ合ったという。信州には大釜でお湯を沸かしその湯を笹の葉に浸して振りかける霜月祭・湯立て神事という祭があるという。笹の葉で湯をかけるのを笹湯神事という。笹湯神事を行う場が笹湯だったとすれば湯かけ祭もそのような笹湯神事から変化した祭なのかもしれない。ちなみに王湯は、玉湯が正式である。タマユと書いてオオユと読ませる。なぜかテンがついている。頼朝発見伝説があるので、将棋の王将と玉将のように、王=天皇に気を遣って玉になったのではないかと最初は考えた。かつて頼朝の衣かけ石というのが王湯の隣にあったが道路拡張の時に埋められてしまった。その石は大石ともよばれていて注連縄もかけられていたという。古地図には丸い玉石として描かれているものもある。大石=玉石の湯が玉湯という名称になったのではないかと今は考えている。玉石信仰は信仰の中でも古い方で、川原湯温泉のまつりの始まりはこの石を拝むことから始まったのかもしれない。
戦国時代の砦跡 川原湯城の発見
 川原湯温泉は、約800年前、源頼朝が浅間狩りのときに発見したと伝えられている。湯かけ祭は400年前から続いているといわれている。いわれているだけで物証は何もない。3年くらい前、山をカットしてダムの移転地を作る検討のため、金花山へ登った。そこは尾沼とよばれる場所で山の頂上なのに平になっていて妙に人工的な場所で大きな掘り切りがあり腰郭らしいものもあった。城跡の様なので調査してもらったところ、戦国時代の山城跡と確認され川原湯城と名付けられた。
 川原湯温泉は歴史的には戦国時代まで遡れることになる。戦国時代の吾妻は、上杉、武田、北条が互いに覇を争っていた。吾妻渓谷を挟んで斉藤、真田の大きな戦いもあった。戦国時代、温泉は戦いのケガを癒すための重要な 場所であった。戦国時代は、全国的な人の移動があり、川原湯も真田領となり信州文化の流入があっただろう。戦いには、陰陽道や呪術にたけた軍師がいて合戦の日や吉凶を占っていた。湯かけ祭はそのころの軍師によりつくられた祭かもしれない。 
金鶏山、尾沼、金花山
 川原湯を取り囲む山全体を金鶏山という。冬にはこの山から朝日が昇る。金鶏は天上に住むニワトリで、最初に夜明けを知らせ、これに応じてニワトリが鳴くという架空の鳥である。尾沼は、金鶏山の尾のところにある山上の湧水で、かつては沼だったのだろう。川原湯城の水の手である。
 本丸のある山を金花山という。明治時代の川原湯の地図にはトリデアト、コトヒラ、センゲンと記されている。金花山は金比良宮と浅間神社の木之花佐久夜姫をあわせた名称だろうか。
紅白のふんどし
 湯かけ祭のふんどしは白だけだった。昭和初期に描れた湯かけ祭の絵葉書が湯かけの記録としては、一番古いものである。絵葉書の子供は白いパンツをはき、大人も白いふんどしだ。戦後はじまった大晦日の国民的行事、紅白歌合戦にヒントを得て昭和20年代中頃より紅白のふんどしに分かれて湯かけ合戦をやるようになったという。新暦大晦日の紅白歌合戦と、二十日正月の紅フン白フンの湯かけ合戦。どちらも勝ち負けにはたいした意味がない。
湯かけ音頭
 湯かけ音頭は昭和24年に 作詞 豊田嘉雄 作曲 土屋千代栄により作られた。古い湯かけ祭のかたちをうまく唄い込んである詞である。湯かけ祭は何百年もこの唄のように続けられてきたのだろう。
独特の手締め 
 シャンシャンシャン ソレ オシャシャンのシャン 湯かけ祭の最後は必ずこの手締めで終わる。三三七拍子や一本締めとも違う川原湯独特の手締めである。年寄りの人に聞くと子供の頃からそういう手締めだったという。「川原湯シャンシャン締め」と名付けて会合での締めに使っている。暗いうちから「おゆわいだ おゆわいだ」と威勢よくお湯をかけ合っていると金鶏山の方から空が白んでくる。祭は最高潮に達し、くす玉が割られニワトリが飛び出す。鳴きながら逃げ回るニワトリを追いかけ回し捕まえて御神前に奉納する。ふんどし一丁の無礼講でお湯をかけあった祭の終了である。祭の終わりは今年一年の無病息災を祈念しシャンシャンシャンと桶をたたいて手締めるのだ。シャンシャンシャンとは、馬につけた鈴の鳴る音。ここに最後の呪力が潜んでいる。
平成16年1月吉日
明るくなるまで



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